( ゚Д゚)<Remembrance of Images Lost・3

「しかしわれわれは、実践の最大の利益を得るために、諸事象の現実的な順序を逆転させることにとても慣れており、空間から引き出されたイマージュの強迫をあまりにも強く蒙っているので、われわれは、どこに想起が保存されているのかを問わずにはいられない。物理-化学的な現象が脳のなかで起こり、脳は身体のなかにあり、身体は身体を浸している空気のなかにある等々と、われわれは思い描いている。しかし、ひとたび成就された過去が保存されるとすれば、この過去はどこにあるのか。過去を分子変化の状態で脳実質のなかに置くことは、単純で明晰であるように思われる。なぜなら、われわれはそのとき、現実に与えられた貯蔵庫を持っているからであり、潜伏するイマージュを意識のなかに流し込ませるためには、その貯蔵庫を開くだけで十分であるからだ。しかし、脳がそのような使用に役立つことができないとしたら、どんな倉庫のなかにわれわれは集められたイマージュを入れることになるのか。忘れられているのは、容器と中身の関係が、その見かけ上の明晰さと普遍性を、前方ではつねに空間を開き、後方ではつねに持続を閉ざさねばならないというわれわれの陥った必然性から借りているということだ。ある事物が別の事物のなかにあるのを示したからといって、それによって、前者の事物の保存という現象を明らかにしたことには少しもならない。それだけではない。さしあたりは、過去が脳に蓄えられた想起の状態で生き続けていると認めておこう。そのとき、脳は想起を保存するためには、少なくとも脳そのものが保存されていなければならないだろう。しかしこの脳は、空間内に広げられたイマージュである限り、もっぱら現在の瞬間を占めるにすぎない。この脳は、物質的宇宙の他のすべてのものと共に、宇宙の生成の絶えず新しくされる一つの切断面を構成している。それゆえあなたは、この宇宙が紛うことなき奇跡によって、持続のあらゆる瞬間に滅びては甦ると想定しなければならないか、さもなければ、あなたが意識に認めていない現実存在の連続性を宇宙に移し替え、宇宙の過去を、その現在のなかで生き続け、そこへと引き延ばされる一つの実在たらしめねばならないかのいずれかである。それゆえあなたは、想起を物質のなかに蓄えても何の得にもならないだろうし、反対にあなたは、あなたが心理学的状態に認めなかった過去の独立した全面的な残存を、物質界の諸状態全体へと拡張するのを余儀なくされるだろう。過去のそれ自体としての残存は、それゆえ、どちらの形であれ不可欠なものとして課せられるのだが、あなたがこの残存を思い描くのに感じる困難さは、含むことと含まれることのこの必然性──これは空間内で瞬時に見出される諸物体の全体にしかあてはまらない──を、われわれが時間のなかの想起の系列に付与することに単に由来している。根本的な錯覚は、われわれが持続に施す瞬間的な切断面の形を、過ぎゆく持続そのものへと移し替えることに存しているのだ。」
(アンリ・ベルクソン物質と記憶』)