( ゚Д゚)<反復・再帰・不安

「同種のものの反復というモメントを無気味な感情の源泉と見ることは、どなたにもご承認いただけるというものではないだろう。私の観察では、こうした感情が文句なしに喚び起こされるのはある種の諸条件の下で、しかも特定の環境との組み合わせにおいてであり、のみならずそれはよく夢のなかで見る寄る辺のなさの感情を思い起こさせる。ある暑い真夏の午後、私はイタリアのさる小都市の、勝手知らない、人気のない街路をぶらついていた。私はたまたま、いかがわしい性格がすぐにピンとくる界隈に入り込んでいた。小さな家々の窓には厚化粧の女たちが鈴生りになっているのが見えた。私は足を速め、そのせまい小路を通りぬけて次の角を曲った。ところがしばらくやみくもにうろついてからふと気がつくと、前と同じ小路に出ているのである。そろそろ人目がこちらを見とがめはじめる。私はそそくさと立ち去ったが、結果は何のことはない、またまた新たな回り道をして三度目にそこへはまり込んでしまったのだ。すると私は無気味としかいいようのない感情に捉えられた。それ以上の探検旅行はあきらめて、すこし前に後にしてきた小広場まで戻ると私はほっとした。……
 これとは別種の一連の体験によく見られるのに、こんなのがある。意図せざる再帰のモメントがふだんはどうということのないものを無気味に思わせたり、ふつうなら「偶然」としかいいようのない場合になにやら致命的なもの、逃れられない運命という観念を押しつけてくるのだ。たとえばクロークに預けた衣服の預り証がかくかくしかじかのナンバー──かりに62としておこう──だったり、割り当てられた船室のルームナンバーがまたその数字だと知れたりする。たしかにどうということのない経験にはちがいない。ところが62という数字に同じ日に何度もお目に掛かり、それ自体としては無関係な二つの出来事が双方から接近してきて、しかもアドレス、ホテルのルームナンバー、鉄道車輛等々、数字表記のつくものすべてに、すくなくとも構成要素の一部にくり返し同一の数字が再帰してくるとなると、どうということのない経験という印象は一変してしまう。「無気味」と思うのだ。迷信の誘惑になしくずしに参ってしまう人間だと、えてして、この同一数字のしぶとい再帰には背後になにか隠された意味があると思うのである。……
 同種のものの再帰の無気味さが、いかにして小児期の心的生活から導出されるかについては、ここでは暗示するだけに留めるしかない。そのかわり、他の関連においてすでに詳細な論議がなされていることをお知らせしておく。つまり、心的無意識には欲動の感情に起因するある反復強迫の支配が認められるのである。それはどうやら欲動そのもののきわめて奥深いところにひそむ性質に依存しているらしく、快楽原則を追い出してしまうほど強力で、心的生活のある種の面にデモーニッシュな性格を付与しており、小児のさまざまの行為にあからさまに顔をのぞかせたり、神経症患者の精神分析中のある局面に圧倒的に出現してきたりする。これまでに述べてきた論議全体を通じてわれわれが準備してきたのは、この心の内部の反復強迫を思い出させそうなものこそが無気味さとして感じられるということなのである。」
フロイト「無気味なもの」)