( ゚Д゚)<忘れられない&憶い出せない

「想像するに、白痴の生について論じて、忘れえぬものとしてとどまりつづけるという要請のことを語ったとき、ベンヤミンはなにかしらこうした類のことを念頭に置いていたのではないだろうか。いうまでもなく、この要請はたんに、なにごとか──忘却されてしまっていたもの──が、いまや記憶に立ち戻らねばならない、想起されなければならないということを意味するのではない。要請はまさしく、想起されることではなくて、忘れえぬものとしてとどまりつづけることにかかわっている。それは、個人的な生においても集合的な生においても、あらゆる瞬間に忘れ去られていくすべてのものに関係している。それらのなかで失われていくものの際限のない堆積に関係している。あらゆる種類の歴史家たち、筆記者たち、記録係たちの努力にもかかわらず、──個々人の歴史においても社会の歴史においても──取り返しがたく失われていくものの量は、記憶の保管庫に蒐集されることのできるものよりも無限に大きい。あらゆる瞬間において、忘却と廃墟の尺度、わたしたちがわたしたち自身のうちにたずさえている存在論的浪費は、わたしたちの記憶やわたしたちの意識の許容度を大きく超えている。しかし、忘れ去られてしまうもののこの無形のカオスは、不活性なものでも効力のないものでもない。それどころか、それはわたしたちのうちにあって、仕方こそ異なるにしても、意識的な記憶の堆積力に劣らず、力強く働いている。忘れ去られてしまったものの力と働きというものがあるのであって、それは意識的な記憶というかたちでは測ることができず、知として堆積することもできないけれども、それが執拗に存続しているということこそは、あらゆる知およびあらゆる認識の序列を規定するのである。失われてしまったものが要請するのは、想起され追悼されることではなくて、忘れ去られてしまったものとして、失われてしまったものとして、わたしたちのうちに、わたしたちとともに残ること──そして、もっぱらこのことによって、忘れえぬものでありつづけることなのだ。
 ここから、忘れ去られてしまったものにたいする、たんにそれを記憶に取り戻そう、それを歴史の保管庫と記念碑のうちに書きとどめておこう、あるいはせいぜいが、それのために別の伝統と別の歴史、抑圧された者たちや敗北した者たちの歴史をつくりあげようとするにすぎない、あらゆる関係の不十分さが明らかになる。そのような抑圧された者たちや敗北した者たちの歴史は、支配階級の歴史とくらべて、書かれる手段こそ異なるものの、実質的にはそれと相違するものではない。こうした混乱にたいしては、忘れえぬものの伝統は、伝統ではないということを銘記しておく必要がある。それはむしろ、あらゆる伝統に汚名もしくは栄光のしるしを、あるいは時としてその両方を、印しづけようとするものなのだ。あらゆる歴史を歴史たらしめ、あらゆる伝統を伝統たらしめるものこそは、まさしくそれが自らの内部に核心としてたずさえている忘れえぬものなのである。ここでは、選択は、忘却することと想起すること、無意識なままでいることと意識することとのあいだにあるのではない。決定的であるのはただひとつ、──間断なく忘れ去られながらも──忘れえぬものでありつづけなければならないもの、なんらかの仕方でわたしたちとともにとどまっていることを要請し、なおも──わたしたちにとって──なんらかの仕方で可能であることを要請するものに忠実でありつづける能力である。この要請に応えることが、わたしが無条件に引き受けたいと感じている唯一の歴史的責任である。逆に、もしもこの要請を拒むならば、もしも──個人の次元においても集団の次元においても──わたしたちに寡黙なゴーレムのように付き添う、忘れ去られてしまったものの堆積とのあらゆる関係を失ってしまうならば、そのときには、それは私たちのうちに、フロイトが抑圧されたものの回帰と呼んだもの、つまりは不可能なものそれ自体の回帰というかたちをとって、破壊的にして邪悪な仕方で立ち現れることであろう。」
ジョルジョ・アガンベン『残りの時 パウロ講義』)