( ゚Д゚)<フフフ…殺し合え…

「戦争のルールの目的は、クラウゼヴィッツがおそらく考えていたような「博愛主義者たち」の良心の呵責を少なくすることではない(クラウゼヴィッツ自身、前述したように軍の任務に対する厳格な忠誠心を持っていたために、明らかにこうした「博愛主義者」ではなかった)。戦争のルールにとって第一に重要な目的は、むしろ軍隊自体を保護することである。軍隊自体の保護が戦争のルールのもっとも重要な目的である理由は、クラウゼヴィッツ自身がかなりのスペースを割いて論じているように、戦争とは不確実性や感情の激発が支配する領域に属する現象であるからである。戦争の恐怖ほど合理的な行動を狂わせやすいものはなく、もっとも冷静な人々でさえもいささか奇妙な行動に走らせやすいものはない。戦争は人間のすべての活動のなかでもっとも混沌とした活動であると同時に、もっとも組織化された活動の一つであるというところに戦争のパラドックスがある。仮に武力紛争が少しでも成功の見込みがあって実行されるならば、その戦いは必ず多くの兵士による連携した協調が必要となる。兵士のそれぞれがある共通の行動規範の制約を受けない限り、兵士は協調して行動できないし、そうした兵士を束ねる組織も存在すらできない。戦争に参加する者が、自分たちが何者であるのか、あるいは誰の命令によって何の目的のためにどのような状況下でどのような手段を用いて敵を殺すことが許されているのかといった点を理解しない限り、戦争は起こることはない。こうした点について自己の頭のなかで明確にしていない戦闘集団は、軍隊ではなく暴徒である。
 規律を維持する必要があることに加えて、戦争のルールの第二の機能は戦争と殺人の間に境界線を引くことである。殺人や流血を招く活動は、ルールによって慎重に抑制しない限り社会が許容することができない活動である。こうした規則の目的は、殺戮がある種の権限を与えられた人々によってある特別な状況下において所定の規定に沿ったかたちでのみ実行されることを保証することである。戦争と殺人の間にどのように境界線を引くかというまさにそのやり方において、異なる時代の異なる場所の異なる社会の間に大きな違いがあることは確かであるが、境界線が存在すること自体が絶対的に重要な意味を持つのである。こうした境界線が守られていない場所では社会は砂上の楼閣のような状態に陥るし、戦争──万人の万人に対して単に無差別に行われる暴力とは異なる性質の戦い──は不可能になる。
 戦争のルールの第三で最後の機能は、いつ降伏するかについて敗者側に知らせることで戦争の勝敗を明らかにするための一助となることである。決闘──これはクラウゼヴィッツ自身が用いている戦争のたとえだが──の場合、一方の当事者が死亡したときに戦いは終わるが、戦争はそのようにして終わらない。戦争は、大多数の戦闘員だけでなく、どのようなかたちにせよ非戦闘員を巻き込む集団的な活動である。実際のところ、敵が一人残らず殺害され、敵の所有物が一つも残らずに破壊されることはほとんどない。その理由は、いつでもどこにおいても適用される「勝利」を構成する要件が何かについて定められた規則が存在するからである。通常、敵・味方の間では「勝利」というものがどういうものであるかについて一致した認識がある。当事者間にそういった共通の認識がない場合、戦争は極端に残酷かつ野蛮なものになる恐れがある。」
(マーチン・ファン・クレフェルト「現代におけるクラウゼヴィッツの有用性と限界」)