( ゚Д゚)<子供の倫理

「……さらに彼ら〔頭のいい悲観主義者たち〕はつけ加えるかもしれない、殻をむかれずたらふく食べられる国の最高に気持いい避難所で、自分一人の宇宙ににんまりほほえんでいるのと、音をたてて崩れる建物のあいだ、怒号と悲鳴が飛びかう夜、気狂いになるまいとじっと耐えているのとでは、まったく事情が異なると。しかし、わたしがこれこそ精神の故郷と広告している、極度に、そしてこゆるぎもしない非論理の世界にあって、戦争の神々が非現実的なのは、なにも彼らが現実の空間において読書用の灯火の現実感や万年筆の実体感から都合良く遠く隔っているがためではない、わたしには(大仰に聞こえるだろうが)静かに持続するこの美しく愛すべき世界を侵害するような、そのような事態を想像することができないからなのだ。反対にわたしにとてもよく想像できるのは、仲間の夢想家たち、そのうちの何千という数の人々はいまなお地上をさすらっているのだが、彼らはどんなに暗くめくるめくような肉体的危険、苦痛、瓦礫、死の時がつづこうとも、同じ非合理的かつ聖なる価値基準に固執しつづけるということである。
 では、非合理的な価値基準とは正確にはどういうことなのか? それは一般にたいする個別の優越、全体よりも生き生きとしている部分の優越、周囲の群集がなんらかの共通した衝動にかられて、なんらかの共通した目標をめざしているときに、一人の人間が目にして友情のこもった精神のうなずきの挨拶を送るささやかなものの優越のことだ。燃えている家にとびこんでゆき、隣人の子供を助ける英雄に、わたしは脱帽する。が、彼が貴重な五分間をさいて、その子といっしょにその子の大好きな玩具を見つけて救い出そうと危険を冒したなら、わたしは彼に握手を求める。わたしは煙突掃除夫が高い建物の屋根から落ち、落ちてゆく途中、看板の文字が一語綴りが違っているのに気づいて、まっさかさまに落ちながら、どうして今まで誰も綴りの間違いを直そうと思わなかったんだろうと不思議に思う、そんな男を描いた漫画を憶えている。ある意味では、われわれは誰しも生まれついた高い階上から墓場の平たい敷石のうえに墜落して死んでゆく身の道すがら、不死身の「不思議の国のアリス」といっしょに、眼前を擦過してゆく壁の模様を不思議な目で見つめているようなものだ。ささいなことを不思議に思う、この能力──危険がいかにさし迫っていようとおかまいなしの──これらの精神の傍科白、人生という本のこれらの脚注、これこそ意識の最高の形式であり、われわれが世界はいいものだと納得するのは、まさに常識やその論理とかくも違ったこの子供のような心の純な状態においてなのである。」
ウラジーミル・ナボコフ「文学芸術と常識」)