( ゚Д゚)<ハイデッガーの俳句論

「ここで詩〔トラークル「雪が窓辺に落ち、夕べの鐘は長く鳴りわたる」〕が語り出して呼び起しているのは雪である。夕べの鐘が鳴り響いている間を縫って、一日がまさに終ろうとするこの遅い時刻、雪が音もなく窓辺を打っている。雪片がこのように降りしきるとき、眼前に存続しているものは何であれ、通常の場合よりも、長く現前し続ける。それ故にこそ、毎日、厳しく定められている時にだけ音を聞かせる鐘が、長く鳴り響くことになってくる。そして、言葉そのものに基づく詩の語り出しは、冬の夕べの時刻を名指しで呼ぶ。名指すということとはいったい何であろうか。それは、表象することができ、よく知っている身近なさまざまな対象や事象、すなわち:雪、鐘、窓、降ること、鐘が鳴ることを、ドイツ語というひとつの言語のさまざまな語を用いて並べてみせているにすぎないのであろうか。いや、違う。名指すということは、名や題を与えることでも、語彙をいくつか使いこなすことでもなく、語というものの中へと呼び入れることなのである。名指すとは呼ぶことである。呼ぶということは、呼ばれたものを、より身近に連れてくることである。しかし、身近なところに連れてくるとはいっても、ずっと現前し存続しているものの領域に連れ込んで、そしてその場所にずっと住まわせる、という仕方で呼ばれたものを連れてくるわけではない。呼ぶということは確かに呼び寄せることではある。そして、未だかつて呼ばれたことのないものを、我々の身近なところに連れてはくる。だが、呼び声は呼び寄せながらも、呼びかけられたものに対して、一定の方向に進むべく、すでに呼びかけてもいたのである。その方向とはどこに向っているのか。それは、遠くの彼方への方向である。その遠いところでは、呼び出されたものはまだ現前してはいないものとして留まっているのである。
 こちらへ来るようにという呼びかけは、近みへと呼び入れる。しかし、この呼びかけは、呼ばれたものを遠いところから引き剥がすのではない。その遠いところでは、呼びかけられているそこへゆけという言い方で呼ばれたものが、ずっと居続けることになるのである。呼ぶということは、呼びかけられたもの自身へと呼び入れることであり、それ故、常にこちらへ向う方向と、あちらへ向う方向とが同時にあることになる。こちらへというのは:現前することへの方向であり、あちらへというのは:現前しないことへの方向である。」
マルティン・ハイデッガー「言葉」)