( ゚Д゚)<戦争の発明

「この名称の利点の一つは、狩猟と戦争の新しい区別の仕方を提案していることである。というのも、確かに戦争は狩猟から派生するわけではなく、また狩猟そのものも特に武器を発達させるわけではないからである。狩猟は、武器と道具が未分化で相互転換が可能な次元で行われるか、それともすでに道具から区別されて武器として構成されたものを自分流に使用するかのどちらかである。ヴィリリオが言うように、戦争が出現するのは、人間が人間に対して狩猟者と動物の関係を適用するときではなく、逆に、人間が狩猟される動物の力を捕捉して、まったく別の対人関係つまり戦争の関係(もはや獲物ではなく敵)に入るときなのである。したがって戦争機械を発明したのが放浪する牧畜民すなわち遊牧民であることは驚くにあたらない──牧畜と調教は、原始的狩猟とも定住的牧畜とも異なるものであり、まさしく投射するものとされるものが作るシステムの発見なのである。一撃の暴力で倒す、言い換えれば「一度だけ」の暴力を構成する代わりに、戦争機械は牧畜と調教によって暴力の経済を、つまり暴力を持続させ無制限にさえする手段を樹立したのである。「流血や即時の殺害は暴力の無制限の使用すなわち暴力の経済に反するものである。(……)暴力の経済は牧畜民における狩猟者の経済ではなく、狩猟される動物の経済なのである。乗用馬において保存されるのは馬の運動エネルギーと速度であって、もはや蛋白質ではない(発動機であって、もはや食肉ではない)。(……)狩猟において猟師は野獣の運動を組織立った屠殺によって停止しようと目指すのに対し、牧畜民は野獣の運動を保存し始める。調教によって、騎乗者はその運動に合体して方向を与えつつ加速させようとするのである。」機械の発動機はこの傾向を発達させたものであるが、「乗用馬は戦死の最初の投射機であり、彼の最初の武器システムである。」」
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「遊牧論あるいは戦争機械」)