( ゚Д゚)<ギリシャ-存在論/ヘブライ-倫理学

レヴィナスの仕事はおそらく、ヘブライ的宇宙に記載された数々の可能性へと現代の哲学的思考を目覚めさせるのにもっとも貢献した。とはいえ、レヴィナスの仕事にそれが可能だったのは、不屈の媒介者として、彼の仕事が「ギリシャ的叡知」との対話のための要素すべてを「ユダヤ的叡知」から汲み取り、そうすることでまずヘブライ的宇宙の「哲学への参入」を可能にしたからであった。
アテネの節度」と「エルサレムの激発」はこうして互いに関係づけられることになる。両者の差異を抹消することなくその連繋を造り出すこと、それがレヴィナスの努力のすべてなのである。「ギリシャが知らずにいた諸原理をギリシャ語で言明すること」、それは、ギリシャ的な着想を有してはいないにもかかわらず厳密なある思考を哲学の領野に到来させることなのだ。
 このような思考──まさにレヴィナスの仕事が練り上げようとしているもの──はまずもって、〈まったき他なるもの〉と解された〈他なるもの〉についての思考であろう。もちろん〈他なるもの〉は哲学の関心をたえず占めてきたのだが、例外を除くと、哲学はそれを還元することなしには〈他なるもの〉を見いだすことができなかった。それというのも、その最初のギリシャ的な方位に即して、哲学は存在についての思考にとどまってきたからだ。ところで、存在についての思考は根本的に〈同一者〉についての思考である。「西洋哲学は、〈他なるもの〉が存在として現出することでその他者性を喪失してしまう、そのような〈他なるもの〉の開示と一致している。その幼年時代から、哲学は〈他なるもの〉でありつづけるような〈他なるもの〉への恐怖に、克服不能なアレルギーに取りつかれている。それだから、哲学は本質的に存在についての哲学なのである。」
 しかしながら、「何か」が同一者の支配に抵抗している。「なにものでもないもの」にはまさに還元不能な何かが。他者である。他者の出現は、右に描かれたような秩序を断絶させ混乱させる。他者の出現は、〈同一者〉が始原たることを、自己に平和に休らうことを阻止する。したがって、まさにこの点にこそすべてが懸かっていることになる。……
 つまり、哲学が存在論として定義される限りにおいて──実際、存在論という語が欠けていたにせよ、哲学はギリシャで生まれたときから存在論であったのだが──、哲学は〈他なるもの〉をたゆまず探究しつつも決してそれらに達することができない。というのも、哲学は〈同一者〉の領分たる存在の領分を離れることがないからだ。ところが、聖書とタルムードの二重の教えに養われた思考は〈他なるもの〉を〈他なるもの〉として見いだすことができる。哲学が空しく探し求めているこの〈まったき他なるもの〉を。この種の思考はあくまで哲学的に〈他なるもの〉を見いだすのだが、ただし存在論において〈他なるもの〉と出会うのではなく、倫理において出会うのだ。「絶対的に〈他なるもの〉、それは他者である。」」
(マルレーヌ・ザラデル『ハイデガーヘブライの遺産』)