( ゚Д゚)<言語の限界

「そういうわけで、私はアンスと結婚した。で、キャッシュがお腹に来たのが判った時、生きてゆくのは恐ろしい、これがその返答だったと悟った。そのころだった。言葉なんてものが役に立たぬと判ったのも。言葉なんて人間のいおうとしていることにぴたりとあてはまったためしがない、と判った。キャッシュが生まれてみると、「母性」なんて言葉は、たまたまそんな言葉が入り用になった人間が作り上げたもんだ、と判った。子供をもった女には、そんな言葉があろうとなかろうと、どうでもいいんだから。「恐怖」という言葉も、恐怖なんて感じたこともないだれかが作り上げたもので、「誇り」にしたって、同じことだった。そういうものなんだと判ったのだ。生徒たちの鼻が汚いなんていう話じゃなく、大事なのは、人間がお互いを利用し合うのに言葉を使わねばならず、ちょうどくもが口で梁からぶら下がって、からだをふったり、ねじったりしながら、ついぞ触れ合うことがないのと同じで、ただ鞭打ちを通じてだけ、私の血と彼らの血とが一つになって流れ得るのだと判った。そういうものなんだと判ったのだ。私の孤独が、日ごとにくり返しうち破られねばならぬなんて話ではなく、キャッシュが生まれてくるまでは、一度だって破られたことがないのだ、と。夜ごとのアンスによってさえ、破られはしなかった。
 アンスも言葉をもっていた。それを愛、とよんでいた。が私は言葉というものには長いあいだ、慣れ切っていた。愛という言葉だって、ほかの言葉を変わりがない、間隙をうめる形だけのものだと判った。いざという時には、愛だろうと、誇りや恐怖だろうと言葉なんていらぬものだ、と。キャッシュはそんな言葉を私に言う必要がなく、私のほうだって、同じだった。で、アンスには、使いたいんなら、使わしとけばいい、私はそう思ってた。そこで、アンスか愛か、または愛かアンスか、どっちだっていいことだった。」
(フォークナー『死の床に横たわりて』)