( ゚Д゚)<拙者に嫉妬してもらうでござる

「嫉妬や羨望は三重の存在、つまり対象の存在、主体の存在、嫉妬したり羨望したりする相手の存在、といった三重の存在を前提としている。この二つの《欠点》は、したがって三角形的構造である。けれどもわれわれは、人が嫉妬する相手の中に手本をけっしてみとめようとはしない。なぜならわれわれは嫉妬に関しては、嫉妬する側それ自身の観点に立つからである。内的媒介のあらゆる犠牲者と同様、嫉妬する人間は、自分の欲望が自発的なものである、つまり欲望が対象に、その対象物そのものだけに根ざしているのだと、きわめて安易に思い込んでいるのだ。結果として、嫉妬する者はいつも、自分の欲望は媒介の介入に先だって存在したと言い張ることになる。彼は媒体を、対象との甘美な差し向いを打ちこわしにやってきた闖入者、厄介者、不都合な第三者としてわれわれに紹介するのである。そうなると、嫉妬は、われわれの欲望のある物が思いがけず阻止された場合に、われわれの誰もが感ずるあのいらだちに帰着することになってしまう。本当の嫉妬というものは、そんなことよりははるかに複雑ではるかに豊かなものだ。それは常に、尊大なライバルに魅惑的要素を認めるものである。それに第一、嫉妬に苦しむのは常に同じ人間である。彼らが不幸な偶然の犠牲者であると、われわれは信じなければならないであろうか? 彼らにあれほど多くのライバルを生じさせ、彼らの欲望を通じて数々の障害を増大させるのは運命なのであろうか? われわれ自身はそう信じてはいない。なぜなら、これらの嫉妬あるいは羨望の慢性患者たちを前にして、われわれは《嫉妬深い気質》とか《羨望的性格》といったことを話題にするからである。それでは具体的に言って、他者が欲望するものを欲望する、つまり他者の欲望を模倣するような抗がいがたい性癖を除いて、そうした《気質》とか《性格》は何を予想させるであろう?」
(ルネ・ジラール『ロマンティークの虚偽とロマネスクの真実』)