( ゚Д゚)<すべてを失う者すべてを得べし

「わたしは空想の中ですでに幾度か、意識は十分すぎるほど充たされるが、威力があまりにもわずかしかあらわれないという、未来の瞬間をとらえている。そのような場合──さびしさと、いわれのないふさぎのためではなく、ただひたすら無限に大きいものを望むために──わたしは自分の巨万の富をすっかり人々にくれてやるつもりだ。わたしの全財産の分配を社会にまかせ、わたしは──わたしはまた凡俗の中へまぎれこんでしまうのだ! ひょっとしたら、汽船で死んだあの乞食のようにさえなるかもしれない。相違といえば、わたしのシャツにはなにも縫いこまれていないということだけだ。ただ、わたしの手には数百万の金がにぎられていたが、それを弊履のごとく泥濘の中へ投げ捨ててしまったのだという意識だけが、荒野の中でわたしの心を養ってくれるであろう。わたしはいまでもその考えは変わらないつもりである。そうだ、わたしの『理想』──それはいついかなるときでも、たとい乞食となって船上で死んでも、人々を避けてかくれることのできる城なのである。これがわたしの詩なのである! そしてご承知おきねがいたいが、このわたしに背徳的な意志のありたけが必要なのは──ただに、わたしがそれを拒否することができるということを、自分自身に証明せんがためなのである。
 ぜったいに人々は、そんなことは夢ものがたりで、もし数百万もの金がわたしの手に入ったら、わたしがそれを手放して、サラトフの乞食になるはずがない、と反論するであろう。あるいは、手放さぬかもしれぬ。わたしはわたしの思想の極致を書いたまでである。しかし、これはもうまじめにつけくわえておくが、もしわたしが富の蓄積において、ロスチャイルドのような数字にまで達したら、実際に最後はそれを社会になげだすことで終わるかもしれない。(しかし、ロスチャイルドの数字に達しないうちは、その実行は困難であろう)。そして、半分をなげだすようなことはしない、なぜならそれは凡俗な結果になるだけのことだからだ。単にそれまでの二倍貧しくなるだけで、ただそれだけのことだ。だからこそ全部、一コペイカもあまさず全部でなければならぬのだ、そうすれば、乞食になっても、一挙にロスチャイルドの二倍豊かになれるはずだ! たといこれが理解されなくても、それはわたしの罪ではない。だから、説明はしない。
『行者のたわごとだ、凡俗と無力の小唄だ!』と人々はきめつけるであろう、『無能と凡俗の勝利だ』。そうだ、ある程度は無能と凡俗の勝利であることを、わたしも認める、だが、はたして、無力の、と言えるだろうか。わたしは、その無能な凡庸の男が世の人々をまえにして、にやにや笑いながらこう語りかける場面を想像するのが、たまらなく好きだった。
『あなた方はガリレオです、コペルニクスです、シャルル大帝です、ナポレオンです、プーシキンです、シェイクスピアです、元帥です、侍従長です。ところがこのわたしは──無能な私生子にすぎません、それでもわたしのほうがあなた方より上なのです、だってあなた方はこれに屈服したじゃありませんか』」
ドストエフスキー『未成年』)