( ゚Д゚)<神さまだって生きている

「哲学者や神学者たちの関心の的は、神概念の純粋さに向けられていた。つまり神の概念を、あらゆる神話的、神人同形説的な言及からいっそう鋭く剔抉し分離することであった。超越神をいかなる神話的要素ともかかわらせないようにすること、『聖書』原典やさまざまな民俗的形態をとった宗教的表現の、野放図なまでに擬人化する言説を、神学的に見て異論の余地のないものに解釈し直すこと、これが彼らの意図である。ところが、そういった傾向は、逆に神概念の形骸化をまねく。つまり、神の崇高さを被造物の形象によって損ねまいとする畏れが宗教の決定的な要因となると、当の神については、ますます語ることがむずかしくなるわけである。要するに、この純粋さは、生きいきとした実体感が危殆に瀕することによって贖われている。生ける神というものは、決して純粋な概念のなかには現われない。信者に対し神を生彩たらしめるものとは、ほかでもない、ある点で神を人間界にかかわらせるもの、つまり神をありありと人間の魂に直面させる偉大な宗教的象徴なのである。しかし、合理的な新しい定式化が進めば、それは消滅してゆく。神の生彩を損ねることなく神概念の純粋さを守ること──これが果てしなき神学の課題である。それは繰り返しあらわれた問題とされながらも、徹底的に解決しきることのできない課題である。
 純粋さと生彩という、このふたつの要求のせめぎあう緊張に、ユダヤ教の歴史がある。あるいは、他のいかなる宗教よりもいっそうその度合いが強いかもしれない。なんといっても、独特な性格をもった一神教の要請が、そのような緊張をいやがうえにも高めていったからである。つまり、ユダヤ教ではすべてが一にかかって、神の純粋な唯一性を堅持し、強調しつつ、多元的な世界の要素といかなる混合も許さないよう守ることにあったわけである。しかもその際、神の純粋な唯一性を同時に生きた実体として維持すること──これは、むろんふたつの要素のバランスが何度もあやしくなりながらきわめてきわどいところで保たれる場合だけにしか達成されなかった。哲学者や神学者たちは、このようにいっさいの象徴を廃棄し破砕する唯一性の純粋な定義を求めていったが、その努力が増大すればするほど、逆にそれだけ強く、反撃の可能性も考慮しなければならなかった。つまり、いっさいの目標がもう一度唯一の神の生彩に向けられたわけである。それは、すべて生あるものと等しく、象徴という形で語り出る。いかに精妙だとはいえ、純粋で一分の隙もない神学的公式の形骸化よりも、神の創造的な生命の充溢こそが、心の熱した人びとにはより大きな要請と映らざるをえなかった。そして、近来二千年間のユダヤ教の歴史をあのように劇的な緊張でみたしているのが、この反撃、この「反作用」なのである。というのも、この観点から、素朴なユダヤ教信者や民間宗教の不撓の表現欲ばかりか、ユダヤ教神秘主義の巨大な原動力も理解できるからだ。」
(ゲルショム・ショーレムカバラと神話」)