( ゚Д゚)<動植物の生存権

「人間は生物一般に対する責任=応答可能性を持っているだろうか? この問いは、答えがかならず「否」になるような形に設定され提起されてきたのであって、それはこの言説が今日取りうるもっとも独創的な形態、たとえばハイデッガーレヴィナスも含めてそうなのだ。……
 ……「殺すなかれ」は、ユダヤキリスト教の伝統のなかでは、また、明らかにレヴィナスによっても、「生物一般を死なせてはならない」という意味で理解されたことは一度もない。「殺すなかれ」が意味を持ったのは、肉食的供犠が、〈肉の存在〉として、本質的であるような宗教諸文化のなかでなのだ。倫理的超越の命法に則って考えられるような他者とは、まさしく、他者なる人間なのだ。他者としての人間、人間としての他者。他の人間の人間主義、これはレヴィナスが、そのなかで、まさしく、属詞と主語の序列を失効させた著作の表題だ〔『他者のユマニスム』〕。だが、この他者-人間は主語なのだ。
 ハイデッガーレヴィナスほど独創的な言説は、たしかに、伝統的なある種の人間主義を揺るがす。にもかかわらず、それらは深い人間主義であり、両者を分かつ諸々の差異にもかかわらず、供犠を否定しない限りにおいて、いずれも人間主義なのだ。レヴィナスの言う意味での主体も、現存在も「人間」だ、供犠が可能であり、生命一般の侵害が禁じられていない世界における、ただ、人間の生命に対する、隣人である他者の、主体としての他者の生命に対する侵害だけが禁じられている世界における「人間」なのだ。ハイデッガーはこうは言わない。しかし彼が道徳意識の(あるいはむしろ)良心の起源に置くものは、明らかに、動物には拒絶されている。……良心はただ、現存在を生物とは別のものに、それ以上の、それよりよいものにするところのあの〈死への存在〉にだけ認められるのだ。ハイデッガーが執拗に行った生気論あるいは生の哲学批判は、そればかりか、現存在の構造内で生を考慮することに対する批判もまた、ある観点から見た場合にはどれほど正当であろうと、ぼくがここで「供犠的構造」と呼ぶものと無縁ではない。……(いずれにせよ、……それ〔供犠的構造〕をぼくは、他の機会に「男根ロゴス中心的」構造と呼んだものと接合しようとしているのだ)……」
ジャック・デリダ「『正しく食べなくてはならない』あるいは主体の計算」)