( ゚Д゚)<大正エゼキエル

「中村星湖氏「踏切番の発狂」(早稲田文学)──
 踏切番の貧の悲惨を、事象や踏切番人を内から描かずに、噂話や一寸した所見で、ほのめかそうと云うのである。楽な形式を選んで、逃げを打ったとしか見えない程、作者の態度も筆致も、甚安穏で、いい加減なもので、熱誠を欠いた、投げたものらしい。そして、幾ら不熱心だとしても、所々に洩らした作者の観照が、こんなに常識以下では致方がない。
 宮地嘉六氏「生活の沼」(中央公論)──
 此作も、芸術的に不感症とでも云うべきタッチで、一人の男の経歴が記述されている外、何物も感じられない。単に作者がこうした生活経験を持っていたというだけでそれを如何に描き生かそうかとの努力も、それを通じて何を語ろうかとの意志も、殆ど無いようにさえ見えるし、材題に対し感じ方等が創作心理のあるべき所(あらゆる傾向の)から遠いものだ。
「太陽」で、小川未明氏の「夜の群」と、吉田絃二郎氏の「盗人の妻」を読んだが、読んでいる方で恥しくなって、眼を外したくなる。もうこうなると何と云っていいか分らない程の下らない作品だ。唯書かなければならないから書いたに過ぎないもので、両氏の短所の極点を見せたものと思うのが親切だろう。
 しかし、右の四作の如きは、たとえ如何なる心身の状態の下に、如何なる必要の下に書かれたにしても、かかる心とかかる表現を示したことは、直に諸氏の創作家としての死滅を意味してもいい程の低劣さだ。かかる心の方向と、潤と密と輝の度と、感触と、流動と破綻を見せることは、素質的な恥でなければならない。勿論、宮地嘉六氏「生活の沼」を除いては、特に吉田絃二郎氏の「盗人の妻」等は何等の衝動も慾求もなしに、書きなぐったに過ぎないもので(そうでなかったら、それこそ大変だ。)かれこれ云々されるのは作者も迷惑なのであろうが、どんなに気持を落して楽になり、厭々ながら、心持が沈滞したまま書かれたものであっても、右諸作の如きが出来上がるのは不思議だ。」
川端康成「今月の創作界 大正十一年二月」)