( ゚Д゚)<語り手≠作中人物≠私

「さしあたってわれわれが、語りのパースペクティヴと隠喩的に呼んでいるものは、つまるところ、ある制限的な「視点」を選択すること(あるいはしないこと)から生じる、情報の第二の制禦の仕方であるのだが、この問題は十九世紀末以来、物語の技法にまつわるすべての問題の中で研究の対象とされることがもっとも多かったものである。バルザックフローベールトルストイやジェイムズを論じたパーシー・ラボックの諸研究、あるいはスタンダールにおける「視野の制限」についてのジョルジュ・ブランの研究がそうであるように、批評の分野では申し分のない成果があがっている。とは言うものの私見によれば、このテーマを扱った理論的研究(それらは、本質的には単なる分類に終始している)は、遺憾ながらその大半が、本書において私が叙法と呼んでいるものと態と呼んでいるものとを混同しているのである。言い換えるなら、どの作中人物の視点が語りのパースペクティヴを方向づけているのか、という問題と、語り手は誰なのか、というまったく別の問題とが、あるいはより端的には、誰が見ているのか、という問題と、誰が語っているのか、という問題とが、混同されているのだ。」
(ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』)