( ゚Д゚)<あわれなわたくし

「わたくしは縁あって中国文学をやることになった。ほんとうに縁あってである。ただしその縁が良縁であったか、あるいは悪縁であったかは、どうもいまだによくわからないのだが、とにかく縁があったにはちがいなかった。というのはわたくしの生い立ち当時、世のなかに英漢数という課目を重視する勢いがまだ猖獗を極めていたところに輪をかけて、別してわたくしの周囲は、漢学偏重の思想で凝りかたまった連中ばかりであったから、勢い、わたくしは物心がつくやつかずで、さっそく幼学便覧、詩韻含英などをあてがわれ、また栗いろ表紙の後藤点本や、八尾板の史記評林というようなものの御厄介を被らされたのである。いまの子供ならいい加減に反撥してしまうところだろうが、おとなしいためだったのか、それとも意気地なしのためだったのか、唯々諾々として命にこれ従って五目ならべのような平仄を弄んだり、素読と称する機械的読書を励行した。もちろん苦痛でなかったことはない。わたくしの記憶はことごとく退屈と困惑の連続である。なに一つ愉快なことはのこっていないのであるから。たとえば漢学先生はわたくしに大福帳みたいな帳面を一冊わたしておき、これにいつも着到と退出の時間を記入していたし、課題をすませないことにはおやつにもありつけないという規定になっていたというように、大げさにいうならば十重二十重の柵のなかでわたくしという憐れな動物は、まったく無目的無意味な古典研究という藝当をしこまれたのであった。これで愉快であろうはずはない。昨今の若いひとたちは似而非自由主義の文化だと批評しているけれども、大正初期の世間はまるで新しいものだらけの陳列である。白秋が宝石いり装幀の詩集を出す、翻訳劇と創作劇とがめまぐるしく上演される、なんとかいう汚い中学の校舎がぽつんとあったきりの原っぱに、東京ステーションができあがるといった塩梅に。
 宝石いりの詩集というのは『思い出』である。ルビー、サファイヤ、ダイヤモンドの三種で、わたくしの買ったのは一番安いルビーいりのであった。それでも五円した。その五円のためにわたくしはいかに苦労したことか。漢文よりはよっぽどこれらに心をひかれたのは無理はない。」
奥野信太郎『藝文おりおり草』)