( ゚Д゚)<神々の言葉

「彼〔ヘルダーリン〕は詩『ルソー』の中でこう言っている。(第四巻一三五頁三九行以下)


    ……そして合図は
    古より神々の言葉なりき。


詩作とはこの合図をさらに合図によって民族に伝えることなのである。あるいはこれを民族の側から見れば、詩作とは、民族の現存在をこの合図の領域の中へ置き入れること、すなわち、どのような指示において神々が開示されたものとなるかを、なにか意図されたものとか観察しうるものとしてでなく、合図という形で示すこと、指示することである。
 日常的次元においてすでに合図は徴しとは異なるものであり、合図するとは何かを指し示したり、単に何かを気づかせたりすることとは異なることである。合図する者もまた単に「自分」を気づかせるのではない。たとえば自分はこれこれの所におり、そこに来れば自分をつかまえることができるという風に合図するのではない。そうではなくて合図とは、たとえば別離に際しては、ますます遠ざかっていくにもかかわらずしっかりと近さを保持することであり、逆に到来に際しては、歓喜にみちた近さにもかかわらずなお厳として存する遠さを開示することなのである。ところで神々はただ有ることによって合図する。合図とその本質的ヴァリエーションとの本質に呼応して、我々は合図を神々の言葉と解さねばならないのであり、従ってまた、詩作を言葉に包まれた合図と解さねばならない。こうしてもはや「心理的体験の表現」など存在せず、その他の詩作の誤解もありえないのである。」
マルティン・ハイデッガー「詩作の本質について」)