( ゚Д゚)<哲学的ラブビーム

「独自のものに留まりうることを学ぶために、詩人がまず第一に頼りにしたい善い対話は、愛の日々について聴かせてくれる。というのも、愛は愛の対象の本性に対するまなざし(Blick)であり、そして愛の対象のまなざしはその本性を通して愛するものたちの本性根拠のなかを見つめる(blicken)からである。しかもこの本性のまなざしは光景(Anblick)の享受に汲み尽くされる単なる観察とは区別される。愛の精神のまなざしは光景にこびりついているのではなく、愛の対象の本性を、勤勉なまなざしによって、しっかりとその根拠に戻し立てるために、愛の対象の本性に釘付けにされている。最初、ヘルダーリンは次のように書いていた(第四巻三〇一頁)。
           und
   Die Lieb heftet
   Die Augen an.

釘付けにする愛のまなざしは勤勉さとともに、すなわち、変わることのない気配りにおいてだけではなく、「意図とともに」生じる。しかしこの意図は計算した意図ではない。その意図は愛するものたちの本性根拠を目ざした本性のまなざしが狙い定めることに由来する。この狙い定めることはすべてを根拠に釘付けにする。愛の精神が釘付けにする想いは追想でもある。愛するものたちは愛の対象の本性に前もって想いを向け、しかも絶えず、彼ら自身が想いを向けた本性のなかで身を保っていることを想い返さなければならない。船人たちの追想のなかで、また、愛するものたちの追想のなかで、いま、追想の根源的な本性が最初の輝きに到来する。」
マルティン・ハイデッガー「『追想』」)