( ゚Д゚)<書き手の初心

「現実に対する不信、これが文学──文学的天職──の秘められた存在理由なのですが、この不信があるおかげで文学は私たちにある時代に関する唯一の証言をもたらすことになります。フィクション、とりわけもっとも成功したフィクションが描き出している人生は、それを考えだし、文章化し、読み、喜んだ人たちが実際に生きた人生ではないのです。現実に生きることができなかったからこそ、人工的に創り出さざるを得なかった架空の人生であり、だからこそ別の人生、つまり夢とフィクションが生み出した人生を間接的、主観的に生きることになったのです。フィクションというのは嘘、それも深い真実を覆い隠した嘘にほかなりません。それは存在しなかった人生です。ある時代に生きた男女がそんな風に生きたいと願いつつもかなわなかったために、仕方なく考えだしたものなのです。それは歴史の肖像であるというよりもむしろ、その仮面、もしくは裏側であり、現実には起こらなかったことなのです。だからこそ想像力と言葉で作り出さざるを得なかったし、そのことによって実人生で満たされなかったさまざまな野心を沈静させ、また自分の周囲にうつろな穴がぽっかり空いていることに気づいた男女が亡霊を作りだして、その隙間に住まわせようとしたのです。……
 ……文学の遊戯は決して無害なものではありません。あるがままの人生に対して抱いている不満から生まれてくる小説はまた、不快感と不満を生み出す源泉でもあるのです。先に挙げたセルバンテスやフローベルの小説のような偉大な作品を読み、それを生きる人は、自分の限界と不完全さに対して以前にも増して敏感になって現実の人生に戻って行きますが、その時見事に作り上げられた小説というあの空想の世界を通して現実の世界と自分の生きてきた人生がきわめて凡庸で退屈なものだということに気づくはずです。すぐれた文学は現実の世界に対する不安をかき立てますが、それはある特定の状況のもとで権威、制度、あるいは既成の信念に対する反抗的な態度となってあらわれてくることもあります。
 だからこそスペインの異端審問所は、フィクションをうさん臭いものと見なし、厳しく検閲し、アメリカ大陸の全植民地で三百年にわたって禁止するという過激な措置をとったのです。……異端審問所と同じように市民生活をコントロールしようとするすべての政府、体制は小説に対して同じような不信感を抱き、厳しい監視の目を光らせ、検閲という形で手なずけてきました。両者は間違っていませんでした。つまり、小説を書くというのは一見無害に見えて、その実自由を実践し、聖職者、俗人を問わず自由を抹殺しようとする人たちに対して戦いを挑むひとつの方法なのです。」
マリオ・バルガス=リョサ「サナダムシの寓話」)