( ゚Д゚)<読み手の初心

「およそ文学作品を鑑賞するということはどういうことかと考えてみるに、それは作品を読みながら、次第に読者である自分を通じて人間を発見して行く過程だと云える。それは具体的にどういうことかと云うと、作品を読むうちに、いやおうなしに自分をひきずって行くものをふりかえって、深い溜息をつきつつすぎさった頁をなつかしくめくり返したり、その登場人物がひきずって行くとはいえ、あまりに異常であるために、それはわれわれのまわりにはウロウロしていない、作品の中だけの人物であるのか、それとも特殊な時代の、外国のある特殊な地域の、特殊な人物に限られたものなのかということを考えたり、途中で倦きたり退くつしたり躓いたりするところがあれば、それは読者が作品の頁の文字がただの煩わしい活字であることを意識することになるわけなのだが、どうして自分がそんなことになったのか、少し厄介でもそれを調べてみる労を取ることなどであろうと思う。一つの世界を築いた頁が、とつぜん人工的な活字の頁と見えた時に、読者はたぶん口惜しく思うはずで、この口惜しさを糸口にして、さぐりを入れることになる。
 こうして作品に附き添い、離され、さぐり、また歩みより、自己を忘れ、溜息をつき、といったくりかえしが、つまりは作品の鑑賞だということができる。読者がこうした操作を行う時に、その操作の根本となるものは、実は読者が自分でも意識していないことだけれども、人間というものは、古今東西を通じて理解できるものだという確信である。もちろんこの確信は既定のことでありながら、読み行くうちに躓きが生じると、この確信に似たものはゆらぐことはあるけれども、それにしても確信そのものが否定されるのではなくて、その確信をゆさぶる間隙を埋めるものを考え、理解しようとつとめるわけで、要するに、理解できるという確信が前提となっていることにはまちがいない。


 作品というものは、面白くないところをとばし読みし、理解しにくいところを跳びこえて次へ進んでも、長篇の場合には、そこから何らかの美感または快感、つまり作者をゆり動かして一篇の長篇を書かせた、エッセンスを受け取ることは出来る。しかし本当は作品を読み鑑賞するというのは、作者の主張と読者の心の中に潜んだ主張とが、理解という運河を経由して流れ合うものでなければならないのであるから、面白くないところ、理解しにくいところこそ、鑑賞にとって重要な部分であるということも出来よう。その部分を埋めるためには、理解し得る部分を、よりよく理解し直さねばならないし、また、読者は智力や分析力をはたらかせなければならない。
 こうして読者が、作者の中に参加してはじめて、真の作品鑑賞ということになろう。」
小島信夫「時間の傷痕」)