( ゚Д゚)<神さま一個五百円

「ここでわたしたちに関心のある展望に立って、ベンヤミンの考察をたどってみよう。そのとき、次のように言えるのではないか。資本主義は、キリスト教にすでに存在していた傾向を究極まで押し進めることによって、宗教を定義する分離の構造をあらゆる分野で一般化し、絶対化する、と。神聖でないものから神聖なものへ、神聖なものから神聖でないものへの移行を供犠が刻印していた場所に今あるのは、単一で多形的な、たえまない分離の過程であって、この過程は、あらゆる事物、あらゆる場所、あらゆる人間の行動を巻き込んで、これを自分自身から分かつのであり、神聖なもの/神聖でないもの、神/人間の分割線にはまったく無関心なのである。資本主義という宗教は、その究極の形式においては、分離すべきものがもはやないような、分離の純粋な形式を実現する。余すところのない絶対的な涜神は、今や、おなじくらい空虚で全体的な聖別と一致する。そして、商品においては、分離が対象の形式自体に内在していて、対象が使用価値と交換価値に分かれて、とらえがたい物神に変化するのであるように、今や、作用を及ぼされ、生産され、体験されるもののすべてが──人間の身体も、性も、言語活動も──、それら自身から分離され、もはやいかなる実体的な分割も定義することなく、そこではあらゆる使用が永続的に不可能になるような、あるひとつの分離された領域のなかに転位される。この領域が消費である。……もし神聖を汚すことが神聖なものの領域のうちに分離されていたものを共通の使用へと返還することを意味するなら、資本主義という宗教は、その究極の段階においては、絶対的に《神聖を汚すことのできないもの Improfanabile》の創造をめざすのである。」
ジョルジョ・アガンベン「涜神礼賛」)