( ゚Д゚)<握手してもらっていいスか

「そこでひとつの問いが生じる。相互的認識──たとえそれが二重の触知であれ──を起点として、現象学が理解しようと努めている握手、その本義は認識することをはみ出す事態であって、信頼のうちに、忠誠と平安のうちにそれは宿っているのではなかろうか。自我から他人へと向かう一片の贈与がそこには伴っているのだが、相互性における補償へのある種の無関心、倫理的無償性を備えたこの無関心を、握手は創設し、表現しているのではなかろうか。それも、以上の事態に関する情報を伝達するような、単なる規範たることなしに、である。愛を語る愛撫が単に愛の音信や象徴ではなく、こうした言語に先立ってすでにして愛そのものであるのと同様である。そうすると、特に問われるべきは、このような「関係」──倫理的関係──は、同一の身体にも、また仮定的で単に比喩的な間身体性にもまったく属することなき二つの手のあいだの根底的分離を介して課せられるのではないか、という点であろう。このような根底的分離──ひいては社会性の倫理的秩序の全体──が、人間の面を照らし出す顔の裸のなかで意味されているように私たちには思えるのだが、のみならず、ここにいう分離は、人間の感性的存在全体の表出性を通じても、握られる手を通じても意味されているのである。」
エマニュエル・レヴィナス間主観性について──メルロ=ポンティ覚書」)