( ゚Д゚)<目指せ物質的救済

ユダヤ教およびキリスト教におけるメシアニズムへの態度を規定するのは、全く違う救済概念であるし、まさに一方にとってはその理解の名誉称号として、その使信の積極的獲得物として現われるものが、他方にとってはもっとも決定的に価値下げされ論駁されるのである。ユダヤ教は、そのすべての形式や形態において、常にひとつの救済概念に固着してきたが、それは救済を、公共性において完遂され、歴史の舞台上で、また共同社会の媒介において、要するに、決定的に可見的なるものの世界において完遂され、そのような可見的なるものの現われをぬきにしては考えられないような過程として把握してきた。それに対してキリスト教にあるのは、救済を精神的領域および不可視なるものにおける一過程として把握する理解であるが、その過程は、魂の中で、個々人の世界の中で演じられ、ひそかな変化を惹き起こすものであり、それには世界内の外的な何物も呼応してはならない。アウグスティヌスの『神の国』自体──それは、キリスト教的教義学の諸規定の下でもっとも広汎に、救済に関するユダヤ教的諸範疇を教会のために保持すると同時に再解釈しようと試みたのだが──救われていない世界内で不可思議な仕方で救われた者たちの共同体である。……教会が、この救済理解をもって、外的な、然り、物質的なものと結びつけられた概念を克服し、それに、より高い尊厳さをもつ新しい概念を対置したと確信するとすれば、まさにこの確信こそ、ユダヤ教には昔から進歩とは全く違うものとして映ってきたものなのである。」
(ゲルショム・ショーレムユダヤ教におけるメシア的理念の理解のために」)