( ゚Д゚)<滅罪パンチ

「直接的暴力の神話的宣言は、より純粋な領域をひらくどころか、もっとも深いところでは明らかにすべての法的暴力と同じものであり、法的暴力のもつ漠とした問題性を、その歴史的機能の疑う余地のない腐敗性として、明確にする。したがって、これを滅ぼすことが課題となる。まさにこの課題こそ、究極において、神話的暴力に停止を命じうる純粋な直接的暴力についての問いを、もういちど提起するものだ。いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を指定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。ニオベ伝説と対照的な後者の範例としては、コラーの徒党にたいする神の裁きがあげられよう〔民数記十六章〕。この裁きは予告も脅迫もなく、特権者たる祭司長のやからを衝撃的に捕捉して、かれらを滅ぼしつくすまで停止しない。だが、まさに滅ぼしながらもこの裁きは、同時に罪を取り去っている。この暴力の無血的性格と滅罪的性格との、根底的な関連性は、見まがいようがない。というのも、血はたんなる生命のシンボルだからだ。」
ヴァルター・ベンヤミン「暴力批判論」)