( ゚Д゚)<最終決戦! 哲学VS神学

「人は光、導き、知識がなければ生きてゆけない。善についての知識を介してのみ、人は自分の必要とする善を見出すことができる。したがって根本的問題は、人間が個人のレヴェルであれ集団のレヴェルであれ、その生活を導くのに必要不可欠な善の知識を、もっぱらその自然的能力の努力だけで獲得できるのか、それとも善の知識は神の啓示に依存すべきことなのか、ということである。人間の導きか神の導きかという、この二者択一ほど根本的なものはない。前者の可能性は語の根源的意味における哲学ないし科学の特質を示すものであり、後者の可能性は聖書の中にみられる。このディレンマは、いかなる調停や綜合の試みによっても避けることができない。なぜなら、哲学と聖書の両者とも、なにごとかを唯一の必要不可欠のこと、究極的価値をもつ唯一のことと宣言しているが、聖書によって唯一不可欠のことと宣言されているものは、哲学によって宣言されているものと対立するものだからである。つまり、従順な愛の生活と自由な洞察の生活の対立が存在するのだからである。いかなる調停の試み、いかなる目覚ましい綜合においても、二つの対立する要素のうちの一方が他方の、巧妙さの程度に差はあるとしても、しかしいずれにせよ確実に犠牲にされる。女王であろうとする哲学が啓示の侍女にされてしまうか、その逆になるかである。
 哲学と神学の間の世俗的闘争を鳥瞰してみた場合、敵対する両陣営のいずれの側も完全に他方を論破することにこれまで成功してはいないという印象を、我々は免れることができない。啓示を擁護するすべての議論は、啓示への信仰を前提してのみ、妥当するように思われるが、他方、啓示に反対するすべての議論も、啓示への不信仰を前提してのみ、妥当性をもつようにみえる。このような事態は至極当然のことであろう。啓示は自立的理性にとってはいつでも極めて不確かなことであり、したがって啓示は自立的理性の同意をかちとることはできない。もともと人間は、自由な探究、存在の謎の解明の中に、自らの満足、自らの至福を見出すことができるよう造られているのである。しかし他方において、人間は存在の謎の解決を切望しながら、その知識はつねに限られているため、神の照明が必要なことは否定できないし、啓示の可能性も論駁できない。このような事態は決定的に哲学には不利に、啓示に対しては有利に働くように思われる。哲学は啓示の可能性を認めなければならない。しかし啓示が可能なことを認めることは、哲学はおそらく必要な唯一のものではなく、ことによると全く取るに足りないものかもしれぬと、認めることを意味する。啓示の可能性を認めることは、哲学的生活は必ず、そして明白に正しい生活そのものであるとは限らぬことを認めることである。哲学、すなわち、人間としての人間が手にしうる明白な知識の探求へ献げられた生活それ自体は、恣意的で明白さに欠ける盲目的決定に依存していることになるであろう。このことは、啓示への信仰がなければ、首尾一貫性の可能性も、首尾一貫した徹頭徹尾真摯な生活の可能性もありえない、という信仰命題を確証するものであろう。哲学と啓示は相互に論駁することができないという、単なるその事実だけで哲学に対する啓示の側からの反駁となるであろう。」
レオ・シュトラウス「事実と価値の区別と自然権」)