( ゚Д゚)<die göttliche Gewalt ≠ Auschwitz

「『政治神学』における主権の定義は「暴力批判論」を執筆している一九二〇年には、ベンヤミンは『政治神学』を読んでいなかったものと思われる。したがって、主権的暴力も、それによって設置される例外状態も、「暴力批判論」には現れない。この主権的暴力と例外状態が、法権利を措定する暴力と保存する暴力に対してどこに位置づけられうるのかを言うのは難しい。神的な暴力のもつ両義性は、おそらく、まさにこの二つが不在であること自体のうちにその根を探し求めなければならないのだろう。実のところ、明らかに、例外状態において行使される暴力は、法権利を保存するのでも法権利を単に措定するのでもなく、法権利を宙吊りにすることで保存し、法権利から自らを例外化することによって法権利を措定する。この意味で、主権的暴力は、神的な暴力と同様、ベンヤミンの試論が両者間の弁証法を定義しようとしている二つの暴力の形式のいずれにも、全面的には還元されない。このことが意味するのは、主権的暴力が神的暴力と混同されうるということではない。それどころか神的な暴力は、例外状態との関連において措定すると、定義がさらに容易になる。というのも、主権的暴力は法と自然、外部と内部、暴力と法権利のあいだに不分明地帯を開くからだ。だが、主権者とはまさしく、これらを混同するかぎりにおいてこれらを決定する可能性を保持する者である。例外状態が通常事例から区別されるかぎり、法権利を措定する暴力と保存する暴力のあいだの弁証法は本当の意味では断ち切れていない。それどころか主権的決定は単に、その一方から他方への移行がなされるにあたっての媒介項として現れるだけである(この意味では、主権的暴力が法権利を措定すると言うことができる。というのは、主権権力は、他のしかたでは違法であるような行為の合法性を肯定するからである。また、主権権力は法権利を保存もする。というのは、新たな法権利の内容とは、旧い法の保存にほかならないからだ)。いずれにせよ、暴力と法権利のあいだの連関は、この二つが不分明であるとしても、維持されている。
 ところが、ベンヤミンが神的な暴力として定義している暴力は、例外を規則から区別することがもはや不可能である地帯に位置している。それが主権的暴力に対してもつ関連は、実効的な例外状態が潜在的な例外状態に対してもつ、「歴史の概念について」の第八テーゼのあの関連〔「抑圧された者たちの伝統は、私たちが生きている〈非常事態〉が実は通常の状態なのだと、私たちに教えている。この教えに適った歴史の概念を、私たちは手に入れなければならない。それを手にしたときにこそ、私たちの課題として、真の非常事態を出現させるということが、私たちの念頭にありありと浮かんでいるだろう。そしてそれによって、反ファシズム闘争における私たちの立場は改善されるだろう。ファシズムに敵対する者たちが進歩を歴史の規範と見なし、この進歩の名においてファシズムに対抗していることに、とりわけこのことに、ファシズムにとってのチャンスがあるからだ。」〕と同じである。神的な暴力は法権利を措定も保存もせず脱措定する、とベンヤミンが言うことができるのはそのためである(それは、他のうちに数えられるようなたぐいの暴力ではなく、暴力と法権利の結びつきを解体することにほかならないからだ)。それはこれら二つの暴力のあいだの結びつきを──さらには暴力と法権利の結びつきを──法権利の唯一の現実的内容として示す。」
ジョルジョ・アガンベン「境界線」)