( ゚Д゚)<内部における最悪の外部

「例外空間としての収容所の逆説的な立場について考察しなければならない。それは、通常の法的秩序の外に置かれた領土の一片であるが、だからといって、単に外部の空間であるのでもない。収容所において排除されているものは、例外(eccezione)という語の語源的な意味のとおり、外に捉えられている。つまり、自らの排除そのものを通じて包含されている。しかし、このようにして秩序の内に捉えられるのは、例外状態そのものである。実のところ、例外状態は「欲された」ものであるということで、規範が例外と見分けがつかなくなる新たな法的-政治的範例を開始する。つまり、主権権力の基礎は、例外状態について決定することができるということであるが、その例外状態が規範的に実現される構造こそ、収容所なのである。……したがって、より詳細に見れば、収容所では権利上の問題が事実上の問題とまったく区別できない。この意味で、収容所でなされることが合法か違法かといった問いは単に無意味なのだ。収容所は法権利と事実の雑種であり、そこではこの二つの用語は互いに見分けがつかなくなった。
 収容所では、全体主義的支配が定めている原則、常識が認めることを執拗に拒否する原則が白日のもとに現れる、とハナ・アーレントは指摘したことがある。その原則とは「すべてが可能である」というものである。すでに見たとおりの意味で、収容所は例外空間であり、そこでは法が全面的に宙吊りにされるだけでなく、事実と法権利が余すところなく混同されてしまう。だからこそ、そこでは本当にすべてが可能なのだ。まさに例外を安定的に実現するということを使命とする収容所特有の法的-政治的構造を理解しなければ、収容所で起こった信じられないことはまったく理解できないままだろう。収容所に入った者は、外部と内部、例外と規則、合法と違法のあいだの不分明地帯のなかを動いていたのであり、そこでは、個人の権利や法的保護といった概念自体が何の意味ももたなかった。そのうえ収容者は、ユダヤ人であればニュルンベルク法によってあらかじめ市民権を奪われており、次いで「最終解決」のときには完全に国籍を剥奪された。住人があらゆる政治的立場を奪われて完全に剥き出しの生へと還元されたということからして、収容所は、かつて実現されたことのない最も絶対的な生政治的空間でもある。そこで権力がむきあっているのは、まさに何の媒介もない純粋な生なのである。……だから、収容所で犯された残虐行為を前にして立てるべき正しい問いとは、人間に対してこれほど残酷な犯罪を遂行することがいったいどのようにして可能だったのか、といった偽善的な問いではない。それより真摯で、とりわけさらに有用なのは、人間がこれほど全面的に、何をされようとそれが犯罪として現れることがないほど(事実、すべてはそれほど、本当に可能になっていたのだ)自らの権利や特権を奪われるということが、どのような法的手続きおよび政治的装置によって可能になったのか、これを注意深く探究することであろう。」
ジョルジョ・アガンベン「近代的なものの生政治的範例としての収容所」)