( ゚Д゚)<MAN IN LOVE

「いまのところ、言うことはないな、と広部は思った。しかし冷静に留保したつもりのそばから、田部と一度目二度目はいい、しかし三度目は、わからない、と男の嫉妬が溢れ出し、言訳もせずに車の中で彼に手をあずけてけわしい姿勢で泣いていた柾子を思い浮べてその嫉妬をようやくやり過ごすと、またひとうねり、今度は柾子をやみくもに抱き寄せようとするふうに、俺は出会う前から、ほかの男の胸の中で静かに悶えている柾子を思ってきた、そして自分ではいまさら童貞の気遅れでもないのに女に触れずにいた、たとえ《おふくろさまも一緒》になってもいい、あれは俺にとって、いくら穢されても穢れない女、俺のむつかしい情欲のために取っておかれた唯ひとりの女だ、と他人の前で口にするのはおろか、自分ひとりの前でつぶやくのも恥かしいような、昂ぶった感情が押し寄せてきて、頬をゆるめてその力を顔から抜くだけに精一杯になった。
「あら、こちら」と女の声がして、最初の晩にそばのテーブルから柾子に顔をのぞきこまれていた時と同じ間隔が目尻から頬をなぜた。見ると、女が間近から、顔をちょっと後ろへ引いて眺めていた。
「広部さんとおっしゃったわね、まあ、目がつやつやと輝いて」と言って女は広部の肘のあたりに手をかけ、キョトンとした顔を松岡に向けた。「ねえ、あなた、恋をしている男の人を近頃見かけたことがある。あたし、考えてみれば、ほんとに久しぶりだわ」
 虚を衝かれた表情で松岡は広部を見た。目があったとたんに、低い笑いが二人の口から同時に洩れた。
「うらやましいわ、こんなふうに想われている方が。どこかのご令嬢」
 二人はまた笑った。しばらく、声を立てずに笑っていた。柾子を流れの上にそっと置いて、自分も裏切りへ身をゆだねる。そんな快感が広部をひんやりつつんだ。待て、いまにかならず取りもどす、まわり道をして取りもどす、と胸の中でつぶやく声も笑いに揺すぶられていた。
「なんで笑うのよ、二人とも」と女の声がなにか哀しげな響きになった。」
古井由吉『櫛の火』)