( ゚Д゚)<哲学的ファミリー・ロマンス

「〈私〉は〈私〉としてのその唯一性を、父の〈エロス〉から獲得する。父は息子に、原因としてはたらきかけるだけではない。じぶんの息子であることが意味しているのは、じぶんの息子のうちに実体的に存在することである。繁殖性をめぐる私たちの分析のすべては、矛盾するふたつの運動をはらむこの弁証法的なむすびあいを確立することに向けられたものなのであった。息子は父の唯一性を引き受け、しかも父にとって外部的でありつづける。息子は唯一の息子であるからだ。ただし、数において唯一なのではない。父の息子はそれぞれ唯一の息子であり、えらばれた息子なのである。息子に対する父の愛によって、一箇の他なるものの唯一性それ事態とのあいだで、ただひとつ可能な関係が達成される。その意味では、いっさいの愛は、父の愛へと近接しなければならない。とはいっても、息子に対する父のこの関係は、もはやすでに構成されている息子の〈私〉に、いわば幸運としてつけくわわるわけではない。父の〈エロス〉によってはじめて、息子の唯一性が任命される──息子としてのかれの〈私〉は、享受においてはじまるのではなく、選びのうちで開始されるからである。息子はその父に対して唯一のものであるかぎりで、自己に対して唯一のものである。まさにだからこそ幼児である息子は、「じぶんの稼ぎで」現実に存在することができない。そして、息子はその唯一性を父の選びによって獲得するのであるから、息子は育てられ、命令され、服従することが可能なのであり、かくてまた、家族という奇妙なむすびあいが可能となる。創造が被造物の自由と撞着するのは、創造が因果性と混同される場合だけである。超越の関係としての創造──結合と繁殖性の関係としてのそれ──によって条件づけられるものは、反対に、唯一的な存在の定立であり、えらばれた者がまさに自己自身であることなのである。」
エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』)