( ゚Д゚)<Nothing was ever lost that cannot be redeemed.

「ヨブにおける秘密、その生命力、その気魄、そのイデーは、いかなることがあろうともヨブは正しい、ということです。この主張によって彼はあらゆる人間的な味方に対して、ひとつの例外たらんことを要求しているのです。彼の不屈さと力とはこの権能と権威を証明しています。どのような人間的な説明も、彼にとっては、誤解でしかありません。そしてあらゆる彼の苦難は、神と相対する彼にとって、ひとつの詭弁のようなものにすぎないのです、もちろん、彼自身はそれを解くことができません、しかし、神ならば解きうることを恃んで、彼は安んじていることができるのです。あらゆる対人論法が彼に向かって用いられますが、彼は毅然として自己の確信を持してゆるぎません。……自由の情熱が、彼にあっては、まやかしの言辞によって窒息させられたり、なだめすかされたりしないところに、ヨブの偉大さがあります。この情熱は、同じような事情にあっては、他の人間の場合には、しばしば窒息させられています、それは小心さと些細なことにびくつく不安とが、実はなにも罪を犯したわけでもないのに、自分は自己の罪のゆえに悩んでいるのだと信じさせるからです。そういう人の魂には、世間が反対の考えを頑固に言いはると、あくまでも自己の思想を貫きとおすだけの不屈さが、欠けているのです。自分が罪を犯したから不幸に見舞われるのだと考える人があれば、それはいかにも美しく、真実であり、謙虚なことでしょう。しかしそういう考え方が生まれるのは、その人が漠然と神を暴君と見なしているからかもしれません。これは、その瞬間にその人間が神を倫理的な規定のもとに入れていることを表わすもので、愚かしいやり方です。……
 ヨブは自分が正しいという主張をまげません。それを主張する彼の態度は、人間の何であるかを知れる者のけだかい人間的な率直さを証明しています。つまり、人間はもろく弱いもので花の命のように果敢なく散りゆくものではあるが、しかしその自由を志向することによって偉大であり、神が人間に与えたものでありながら神みずからでさえ奪いとることのできぬ意識をもっているということを、知っている人間の率直さです。……
 友人たちはヨブをさんざん悩ませます。彼らとの論弁は、彼があくまでも正しいという考えを浄化する煉獄です。……友人たちのあからさまな暗示、彼らの厚かまし咎め立てによって、ヨブの心の奥深くに隠されているものが、嫉妬深い魔法の杖に呪び出されるように、呼び出されるのです。ヨブの不幸が彼らの主要な論拠です、彼らにはそれですべてが決定されるのです。彼らの論難を聞いていると、いまにもヨブが正気を失ってしまうか、それとも悲惨に打ちのめされて無条件に屈服するにちがいないと思われるほどです。エリパス、ビルダデ、ソパル、それからことに三人のものが疲れ果てたとき気負いたって立ちあがるエリフ、彼らは論点を変えて、ヨブの不幸は懲罰であると説きます、彼が悔い改め、赦しを乞うならば、すべてがまた元どおりになるというのです。
 けれども、ヨブはびくとも動じません。彼の主張はいわば通行証のようなもので、彼はそれをたずさえて世界と人間のもとを立ち去るのです、ですから、人間がどんなに抗議しようとも、けっしてヨブの破棄しようはずのない要求なのです。……
 ですからヨブの偉大さは、“エホバは与えエホバは取りたもうなり、エホバの御名は讃むべきかな”と彼が言ったところにあるのでもありません。……ヨブの意味はむしろ信仰への境界争いが彼のうちで戦いぬかれたということ、荒れ狂う好戦的な激情の力の恐るべき叛乱が彼のうちで演じられたということにあるのです。
 それですから、ヨブは信仰の英雄としてひとの心に安らぎを与えるのではありません、そうではなくて、彼はかりそめに〔midlertidig〕心をしずめてくれるのです。ヨブは、いわば神と人間とのあいだの大事件、サタンが神とヨブとのあいだに悪を据えたところから起こり、そして全体が試煉であったということで終わるあの雄大な恐るべき訴訟において、人間の側に立ってなされた内容豊かな抗議なのです。」
キルケゴール『反復』)