( ゚Д゚)<よろこびの過悪

「ぼくは階段を一気に駆けおりて公園に向った。じりじりしていた。ウルリックの前で全部ぶちまけるなんて、ばかげていた。あの男ときたら、いつだって胡瓜みたいに冷たい顔をしていやがる。真実内部に起っていることを、どうしたら他人に理解させられるだろう? 脚でも折ったというんなら、人は何ごともおっぽり出すだろう。けれども、よろこびで胸が張り裂けそうになっているとなると──まったく、こいつはちょっと厄介だ。涙というものは、よろこびにくらべれば、はるかに始末しやすい。よろこびは破壊的だ。それは他人を不愉快にする。「泣くなら、ひとりで泣け」──なんという嘘っぱちだ! 泣いてみるがいい。そうすれば、いっしょに空涙を流してくれる百万の白々しい人間が見つかるだろう。この世界は永久に泣いている。世界は涙でびしょぬれになっているのだ。だが、笑いとなると、これはまた別物だ。笑いは、つかのまのもので──すぐに消える。だが、よろこびは一種の恍惚たる出血であり、人間存在のありとあらゆる毛穴からあふれ出す一種の不真面目な満足の過剰だ。自分がよろこばしい気持でいるというだけで他人をよろこばせることはできない。よろこびは、めいめい自分でつくり出すべきものであり、存在するか、それとも全然存在しないかのどちらかだ。よろこびというものは、理解され伝達されるには、あまりにも深遠な何ものかにもとづいている。よろこばしい気持でいること、それは悲しげな亡霊どもの世界では狂人であることにひとしい。
 ウルリックが積極的によろこんでいるのを、ぼくはまだ一度も見た記憶がない。彼は、わけなくこころよい健康的な笑いを笑うことができる。だが気持が沈んでいるときの彼は、いつも標準以下だ。スタンレーはどうかというと、彼がつくり出すことのできる歓喜らしきものにもっとも似ているのは石炭酸的なにやにや笑いだ。ぼくの知っているかぎり、しんじつ内面的に愉快であるか、あるいは、せめてすぐさま快活さをとりもどせるような人間は、一人もいない。当時インターンだった友人のクロンスキは、ぼくが泡立つような気分でいるのを見ると、まるで脅迫でもされたようにふるまったものだ。よろこびと悲しみについて、彼は、まるでそれらが病理学的状態──狂躁抑圧循環における両極ででもあるかのように言っていた。」
ヘンリー・ミラー『セクサス』)