( ゚Д゚)<姉とキスする者にのろいあれ

「その途端に泰夫は力いっぱい引っ張られて、あやうく椅子ごと姉のほうに倒れかかりそうになった。あわてて身体をもとに戻すと、今度はその力に惹かれて、姉が軽々と泰夫の中にもたれこんできた。姉はすぐにバンドを離して、両手を泰夫の膝について身体の間隔をあけ、頭を垂れ、声をころして笑い出した。細く伸びる背中が、ブラウスの下から浮き出た花車な骨の突起をかすかによじって悶えていた。息の顫えが手の甲にかかり、甘ったるい酔いのにおいが髪のにおいと混って昇ってきた。一度、姉は頭を起して泰夫の肩ごしに隣の書斎のほうを眺めやり、眉間にきつい縦皺を寄せて、こみ上げてくる笑いをこらえていたが、また顔を伏せて笑いに揺すぶられるままになった。泰夫の膝に支えられた上半身の顫えと奇妙な対照をなして、腰は遠くで椅子の縁に慎しく支えられて静まっていた。テーブルの下で右足がスリッパを見失って、敷物の上を親指の先でたどたどしく探っていた。
 しばらくして、ふと戸惑いから解きはなたれて、泰夫は姉の身体を見おろしている自分に気づいた。
 こうして見ると、この膝のなかにおさまってしまいそうな可愛らしさだな、と胸の中でつぶやいた。
 それと同時に、右手が細い背に伸びていた。温い顫えが手のひらにかるく触れたとたんに姉は笑いを止め、ひと息こらして、頭を起した。蒼白い顔が目もとに薄く血の色を浮せ、彼の下で仰向いて止まった。そして目の光を内におさめて、見つめられるままになった。覚えのある感覚の中へ、泰夫は吸いこまれかけた。
 唇がほんのわずかに左へそむけられた時、泰夫は我に返った。そして静まりかえった背に置き残された自分の手の始末に戸惑った。姉は左手でそっとその肘のあたりをつかんで自分の背中から離させ、彼の膝の上に置かせた。お互いの間で目に立たぬよう、二つの手はほとんど協力しあうように動いた。それから姉はひょいとはずみをつけて身体を自分の椅子の上に戻し、眉間に皺の跡のうっすら残る顔で疲れはてたように笑い、いつもの声で命令した。
「あなたも、出て行きなさい。ここは御婦人の部屋よ」」
古井由吉『行隠れ』)