( ゚Д゚)<矜持ていう言葉なんて知らなかったよね

「両者〔聖書とギリシア哲学〕の違いの根源について語る前に、私は、聖書とギリシア哲学の根本的な対立を、そこからの帰結を幾つか列挙する仕方で素描しておきたいと思う。私は、聖書とギリシア哲学の双方において正義が位置しているところを示してきた。我々は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』を、最も完全な、あるいは確かに最も近づきやすい哲学的倫理学の作品と解してもよい。ところで、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』は二つの焦点をもつ。焦点は一つではない。一つは正義であり、他の一つは矜持ないし気高い誇りである。アリストテレスが言うように、正義と矜持はともに他のすべての徳を包含しているが、その仕方はそれぞれ異なっている。正義が他の徳のすべての徳を包含するのは、それらの徳に従った行為が他の人たちに関係する限りにおいてのことである。これに対して、矜持が他のすべての徳を包含するのは、それらの徳がその人自身を高める限りにおいてである。さて、アリストテレスの正義と聖書の正義との間には密接な類似性があるが、アリストテレスの矜持の方は、聖書とは異質である。矜持は、人が習慣的に偉大な名誉に値する場合にそのような名誉を自分で要求することを意味するのである。聖書の謙遜はギリシア的な意味での矜持を排除している。……ギリシアの哲学者たちは、一般的な普通の人間に関する限り、徳は適度な経済的支えを前提とすると考えていた。これに対して、聖書は貧しいという語と敬虔なあるいは正しいという語をまったく同意語として用いている。聖書と比較すると、ギリシア哲学は、他の点と同様この点でも無慈悲である。矜持は自分自身が価値をもっているという人間の信念を前提としている。それは、人間が自分自身の努力によって有徳でありうるということを前提としているのである。この条件が満たされるなら、自分の欠点、失敗、罪の意識は、善き人にはふさわしくない下等なものということになる。再びアリストテレスを引用する。「羞恥心は、まだ十分に有徳であることのできない若年者にはふさわしいが、そもそも自由に誤ったことをなしえない年輩者には、ふさわしくない」(『ニコマコス倫理学』1128b10以下)。」
レオ・シュトラウス「進歩か回帰か」)