( ゚Д゚)<退屈の毒

「かてて加えて始末のわるいのは、あのうんざりする退廃観客があとを絶たぬということだ。つまり、どういう格別な理由があるのか知らぬが、緊迫感のない舞台、いや娯楽的でさえない舞台がまさにお気に召すといった、救いがたい手合いのことである。たとえば、古典劇の月並みを絵に描いたような上演を見終わって、いともにこやかに帰途につく学者先生。彼の心をかきまわして、もう一度根本からことを考えなおさせるような事態がなにひとつ起こらなかったから、彼はご機嫌である。ご愛唱の名台詞をそっと暗誦しながら、先生かねての持論を改めて確認に及ぶというわけだ。彼が心の底から欲している演劇は、現実をこえた、いとも高貴なる演劇のはずなのだが、こんな一種の知的満足にすぎぬものを、彼は自分が望んでいる本物の経験だと錯覚している。不幸なことに、学者先生の権威のおかげで退屈さに箔がついてしまい、かくして〈退廃演劇〉はめでたく生きのびるという筋書である。
 毎年の成功作なるものを見ていると、まことに奇妙な現象に気づく。大当たりをとった公演ならば、失敗に終わった芝居よりも、当然もっと活気とスピードと輝きに満ちているはずだと思うのが人情だろう──ところが必ずしもそうではないのだ。たいていの芝居好きの都会でほとんど毎シーズン起こる現象だが、右の原則におよそあてはまらぬ大ヒットがひとつは必ずある。退屈なのにヒットするのではなく、退屈だからヒットする芝居である。なんのかのといっても、文化という観念は、人びとの心の中で、ある種の義務感や時代衣裳や長台詞や、さらには噛み殺されたあくびといったものと結びついている。だから逆に言って、適度の退屈さこそ、有意義なひと晩を過ごしたという感じを抱かせる条件なのだ。もちろん、退屈さの匙加減が微妙であって、どのくらいが適量か、その処方箋を決定することはできない。多すぎれば観客は席を立ってしまうし、少なすぎれば主題が緊迫して不愉快だということになる。だが、どうやら凡庸な作家たちにかぎって心得たもので、過たぬ勘によって完璧な処方を見つけ出すものらしい──そして彼らは拍手喝采に包まれた退屈なる成功のうちに、〈退廃演劇〉を不滅にする。観客はといえば、彼らは演劇の中に、人生よりも〈すぐれている〉と呼べるような何ものかを求めている。そしてまさにそのために彼らは、〈文化〉あるいは文化的虚飾と、自分たちの知らない何ものか、しかし存在するはずだとかすかながら予感している何ものかとを混同してしまいがちである。その結果、彼らは劣悪なものをヒットさせることによって、ひたすら自己をたぶらかすという悲劇的な次第となる。」
ピーター・ブルック「退廃演劇」)