( ゚Д゚)<ギリシア永遠入門

「さて、この全宇宙(ウゥラノス)──と言うか、コスモスと言うか、あるいはその他何とでも、名づけて呼ぶ分には、この当のものが一番よく受け入れてくれるような名称で呼んでおくことにしましょう──とにかく、そのものについて、まず第一に、およそどんなものについても最初に考えなくてはならないとされていることを、考察しなければなりません。つまり、宇宙は、生成の出発点というものがまったくなくて、常に在ったものなのか、それとも、ある出発点から始まって、生成したものなのかということです。〔しかしそれは〕生成したのです。何故なら、それは見られるもの、触れられるもの、身体を持ったもの(物体性を具えたもの)であり、すべてこうしたものは、感覚されるものなのですが、この感覚されるもの、つまり、思わくによって、感覚の助けを借りて捉えられるものが、生成するもの、生み出されるものであることは、すでに明らかにされたことだからです。ところがまた、生成したものは、何か原因となるものによって生成したのでなければならないと、われわれは主張しています。さて、この万有の作り主であり父である存在を見出すことは、困難な仕事でもあり、また見出したとしても、これを皆の人に語るのは不可能なことです。しかしそれはともかくとして、もう一度先の問題に帰って、次のことを宇宙について考えなければなりません。つまり、宇宙の構築者(デーミウゥルゴス)は、モデルのうちのどちらのものに倣って、この宇宙を作り上げたのか。同一を保ち、恒常のあり方をするものに倣ったのか、それとも、生成したものに倣ったのかということです。さて、もしもこの宇宙が立派なものであり、制作者がすぐれた善きものであるなら、この制作者が永遠のものに注目したのは明らかです。しかし、もしもその逆に、口にするのも許されないようなこと〔宇宙が劣悪なもので、制作者が悪しきものである〕としたら、その場合には、制作者は生成したものに注目したことになります。すると、制作者が永遠のものに注目したということは、誰が見てもはっきりしているわけです。というのは、宇宙は、およそ生成した事物のうちの最も立派なものであり、制作者のほうは、およそ原因となるもののうちの最善のものだからです。そこで、このようにして生成したのですから、宇宙は、言論と知性(理性)によって把握され同一を保つところのものに倣って、製作されたわけなのです。ところで、以上のような事情があるとすれば、この宇宙が何らかの似像であることも、これまた大いに必然的なことです。」
プラトンティマイオス』)