( ゚Д゚)<Re: 反-家族

「やがて私はジャクリーンが疲れてきたのに気がついた。彼女は岩の上に腰をおろして、悲しそうにあたりを見まわした。ブルースは道に目印でもつけるつもりか、さきに立って走っていた。「だっこして行ってもらいたいのかい?」と私はジャクリーンにきいた。「そうよ、ヘンリー、抱いて行ってちょうだい。あたし、とってもくたびれたの」と彼女は言って両手をさしのべた。私は彼女をかかえあげ、その小さな腕を私の首にすがりつかせた。すると、つぎの瞬間、私の眼には涙がにじんできた。私は幸福だった。と同時に悲しくもなった。何よりも自分を犠牲にしたい欲求にかられた。子供なくして人生を送るのは、偉大な感動の世界に自己を拒絶するのと同じだ。かつては私も、こんなふうにわが子を抱いて行ったことがある。ロウエル・スプリンジャーと同じく、私もわが子のあらゆる気まぐれに溺れた。幼児に向って誰がノーと言えよう。おのれの血肉に対して誰が奴隷以外の何ものになりえよう!
 家までは、歩いて長い道のりだった。私はときどき彼女をおろしては一息つかないわけにはいかなかった。いま彼女は、いやに気どって、なまめかしくさえあった。私が彼女の意のままになるのを知っているのだ。
「これからあとは歩いて行けないかい、ジャクリーン?」と私はきき、ためしに彼女をおろしてみた。
「だめよ、ヘンリー、あたし、歩けないほどくたびれちゃったのよ」そう言って、またも訴えるように両手をさしのべる。
 その可愛い腕! 私の首にふれるその腕の感触が、完全に私を溶ろかした。むろん彼女は、見せかけているほどには疲れていないのである。つまり彼女は女性の魅力を私に用いていたのだ。それだけのことだ。家に帰りついて、おろしてやると、彼女は、まるで子馬のようにはねまわりはじめた。私たちは家の裏手で、見すてられた玩具を見つけたのである。完全に忘れ去っていたものを思いがけなく発見したことが、魔法のように彼女を蘇生させたのである。古い玩具は、新しい玩具よりも、はるかにいいものだ。それで遊んだこともない私にとってすら、その玩具は神秘的な魅力をもっていた。楽しかったそのときそのときの思い出が、そのなかに宿っているようであった。使いふるして痛められているというそのことが温かいやさしい気持を生みだすもとになっているのだ。たしかにいまジャクリーンは幸福そのものだった。完全に私を忘れていた。彼女は昔の恋人を見つけだしたのだ。
 私は、うっとりとそれに見とれていた。なんの考えも心づかいもなしに、そんなふうに一つのものから別のものへと移ってゆくというのは、文句なしに正直でもあり公平でもあると思えた。それは、きわめて聡明な人たちと共通に子供たちがもっている天賦の才能である。忘れることの才能、突き離すことの才能だ。私はキャビンに戻って、たっぷり一時間、夢想にふけっていた。やがてメッセンジャー・ボーイが私あての金をとどけてきた。それが私を現実に、人間の値うちをもった猿の世界に立ちかえらせた。金! この言葉が狂ったようにひびいてきた。屑の山のなかにある壊れた玩具のほうが、私には、かぎりなく貴く意義あるものに思えた。」
ヘンリー・ミラー「公園の一日」)