( ゚Д゚)<無意識入門

「長らく女性に背を向けている状態は、私たちの用語でいえば妄想形成の素因という、人格的適性を生じせしめる。精神障害の展開は、すっかり忘れられてしまっている、すくなくとも痕跡としてはエロティックなアクセントのある幼児体験を、ある偶然の印象でめざめさせられるのがきっかけではじまる。しかし以後に起こることを考慮に入れるなら、めざめさせられる、というのは適切ないい方ではない。私たちは作家の正確な描写を、芸術的にも適切な心理学的表現法において再現しなくてはならない。ノルベルト・ハーノルトはくだんの浮彫像を目にしても、こうした足のたたずまいをずっと前に幼なじみの女の子の身体で見たことがあるのを思い出せない。すっかり忘れてしまっている。それでも当の浮彫像の与える効果はこうした幼児期の印象への結びつきに由来しているのだ。このように子供時代の印象がめざめて、活動が表面化しはじめるところまで能動化してくるのだが、それでもそれは意識にまでは到達しない。幼児期の印象は、今日の心理学では避けられなくなった用語でいうなら、「無意識」のまま残存しているのである。私たちとしては、この無意識ということばには、しばしば語源的意味しかお持ち合わせのない哲学者や自然哲学者の反論は一切禁じられていると見たい。能動的にふるまいつつも当該の人物に意識されるにはいたらない心的過程をいうのに、さしあたりこれに勝る名称がない、まさにそういうものを指して私たちは「無意識」というのである。……
 先にも申し上げたが、ノルベルト・ハーノルトにあってはツォーエとの幼なじみの記憶が「抑圧」状態にある。それをここでは「無意識の」記憶と呼ぶことにしよう。この二つの技術用語は意味が同じように見えるので、ここで両者の関係に目を向けておく必要がある。説明は簡単である。「無意識」は広義の概念であり、「抑圧」(されている)というのは狭義の概念である。すべて抑圧されているものは無意識である。しかしすべての無意識について、それが抑圧されていると主張することはできない。ハーノルトが浮彫像を一目見てツォーエの歩き方を思い出したとすれば、これはそれまで無意識だった記憶が彼の心に能動化すると同時に意識されたのであり、無意識の記憶はそれまでにも抑圧されていなかったことが明らかにされよう。「無意識」とは純粋に記述的な、多くの点で不確かな、いわば静態的用語である。「抑圧」されているとは、心的諸力のせめぎ合いを顧慮した動体的表現であって、こちらは、意識化という心的活動をもふくむあらゆる心的活動を表明せんとしながら、しかし反力をも、すなわちまたしても意識化をもふくむこの心的活動の一部を阻害しかねない抵抗をも表明せんとする、ある志向が存在するのだと主張しているのである。抑圧されたものの特徴は、それがその強度にもかかわらず意識されないということにある。ハーノルトの場合、浮彫像が浮上してくるのについて問題なのは、このように抑圧された無意識であり、要するに抑圧されたものなのである。」
フロイト「『グラディーヴァ』における妄想と夢」)