( ゚Д゚)<いつも衝動的とは私の事だっちゃかな?

ニーチェは理性によって確立された身体の「衛生学」のために語るのではない。彼が語るのは身体の諸状態のため、意識が個人的な意識としてあるためには隠蔽せざるをえない真正なる与件としての、身体の諸状態のためなのだ。こうした観点は、純粋に「生理学的」な生の概念をはるかに超え出るものである。身体とは偶然の所産である。それは諸衝動の全体の出会いの場所にほかならず、それらの衝動は一人の人間の生の期間は個人化されているとはいうものの、ひたすらに非個人化されることを渇望しているのである。……
 これ以降、考慮の対象になるものはもはや自我の所有物としての身体ではなく、諸々の衝動の場所としての、それらの遭遇の場所としての身体である。衝動の生産物としての身体は偶然的なものとなる。それは不可逆的でもなければ、可逆的でもない。というのも、その身体は、衝動の歴史以外の歴史というものを持たないからだ。衝動とはまさに寄せては返し、返してはまた寄せるもの。それが描きだす円形の運動は、気分の諸状態のみならず思考のなかにも、魂の音調のなかにも、魂の音調のみならず身体的な抑鬱状態のなかにも──後者が精神的なものとなるのは、自我のさまざまな言表や判断が、それ自体としては不安定にゆれ動く、したがって実体のない一つの特性を、言語のなかで再創造するときだけなのだが──はっきりと自分を告知しているのである。
 ……
 身体は「自己(Soi)」である。「自己」は身体のただなかに住まっており、身体によってみずからを表現する。──これはすでにニーチェにとっての中心的な立場である。頭脳が彼に拒否するすべてのものは、身体生活のなかに、知性の座〔=脳〕よりもはるかに大きな知性である身体生活のなかに隠れている。あらゆる痛み、あらゆる苦痛は、さまざまにゆれ動く無数の衝動をかかえた身体の複数性と、頭脳的感覚の解釈の執拗さとのあいだの争いの結果である。創造的な力が、価値評価が噴出するのは、身体からであり、自己からである。自由意志を持った自我とか「自己を滅した」精神とかをはじめとして、死すべき亡霊のかずかずが生まれるのは、それらの力と頭脳による転倒の結果である。同様にして、他者とか隣人とかいうものは、精神による転倒を通して投影された「自己」の影でしかない。「自我」も「他我」も、単なる「自己」の変形としてしか現実性を持たない。最後に、身体のなかにある「自己」というものは「カオス」の延長された先端でしかなく──個人化された有機的形態での衝動というものは、「カオス」から委任を受けて派遣されたものでしかない。……」
ピエール・クロソウスキー「欲動の記号論の起原としての病的諸状態」)