( ゚Д゚)<詩的解剖学

「蝋燭を手にもてば、網膜血管の影を壁にうつすことができる。まだ静かになりきってはいない。まったく静かになることは決してない。一晩じゅう、大脳の動脈に血が流れる音が聞こえてくる。思考の腰部だ。きみは歴史の行為、原因と結果の歯車をたどって逆もどりして行く。きみはけっして休止できない、あきらめて水晶占いをはじめることはできないのだ。きみは肉体の内部をよじのぼる、筋肉組織……筋のある筋肉と筋のない筋肉と……を静かに開いてなかにはいって行く。きみは下腹部消化管の点火装置を調べる。それからまた脾臓を、下水溝のように滓のつまった肝臓を、膀胱を、締金をはずした赤い腸の帯を、食道の柔らかな角形の通路を、カンガルーの袋よりも柔らかな、粘液のつまった声門を。ぼくは何を言おうとしているのだろう。つまりきみは各部を整合する組織を探している、あらゆるものを定着させ、そこから悲劇をとりのぞいてしまうような〈意志〉の統語法を探している。きみの顔から汗が吹きだす。内臓が忙しげに凝縮したり伸張したり、忙しさのあまり、その内臓を見つめている男、つまりきみじしんには見むきもしない、それを感じたときのきみの冷たい狼狽なのだ。作業中の都市、排泄物を生産する、いや、まったくのところ、日々の犠牲を生産する工場だ。祭壇に捧げ物ひとつするたびにトイレットに捧げ物ひとつさ。これはどこで出会うのだろう? どこで連絡するのだろう? 暗闇の鉄橋のそばでこの男の恋人が待っている。彼女の体内にもやはり名状しがたいうごめきがある。葡萄酒が導管を洗い流し、幽門がピストンのように吐出し、細菌学的世界が、精液のなかに、唾液のなかに、喀痰のなかに、体臭のなかに無限に繁殖していく。彼は脊柱を腕に抱く、アンモニアのあふれる導管を、花粉を分泌する脳膜を、小さな坩堝のなかで輝く角膜を、抱きしめる……」
(ローレンス・ダレル『ジュスティーヌ』)