( ゚Д゚)<見えない全体主義

「しかしながら、情動の世界の芸術による再生産-複製は、隷属的意識によって作られたこの文化的・歴史的世界のおかげではじめて可能になったのだった。そもそも芸術とは、隷属的意識が自律的意識に変貌したことの証拠ではなかったか。しかし、それゆえにこそ、今度はまた新たな隷属性の支配がはじまるのだ。というのも、歴史的・人間的世界はまさしく情動のかずかずを沈黙させることには失敗したからだ。新たに自律的となった意識が「原初の欲望」(〈主人〉の余暇によってあらわされる)に完全な勝利をおさめるためには、芸術が消滅し(将来、工業発達による平板化によって芸術が消滅させらえるだろうということを、ニーチェがいかに恐れていたかについては、後に見ることになるだろう)、情動のかずかずが交換可能な製品の生産過程のなかに完全に吸収されつくすことが必要だったのだが、その芸術と情動の消滅は実現されなかったのである。それでは、情動が存続するかぎり、そしてそれらが余暇を前提とするかぎり──その余暇は大多数の人間たちの隷属を要求せざるをえないのだろうか。これは問題のたて方がずれている。情動は他の情動のかずかずを隷属させる──ただしまず最初に他の個人たちを隷属させるのではなく──同一の個人のなかでそうするのである。諸情動の振舞いは、その個人が集団的な人間か個別的な人間かを決定する。そしてニーチェにとっては、「集団的」とはすなわち「隷属的」ということにほかならないのである。……」
ピエール・クロソウスキー「文化との闘い」)