( ゚Д゚)<Re: 最大の味方=最大の仇敵・3

「官能を社会的なものに還元することはできない。官能の行き着く先は無意味性であり、この無意味性は官能を語ろうとする無遠慮な言語のなかに現出する。官能を社会的なものに還元することのこのような不可能性は、まるで恋人たちしか世界にいないかのように恋人たちを孤立せしめる。恋人たちのこの孤独は単に世界を否定し忘却することではない。官能によって成就される感じるものと感じられるものとの共同活動がカップルの社会を囲い、閉じ、それに封印するのだ。官能の非社会性を肯定的に表現するなら、それは感覚するものと感覚されるものとの共同体である。他人は単に感じられるものであるだけではない。感じられるもののなかで感じるものが現われるのであり、それはまるで同一の感情が自我と他人に共通の実体であるかのようである。とはいえ、二人の観察者が共通の風景を有したり、二人の思想家が共通の観念を抱くのと同じ仕方で、自我と他人は同一の感情を共有するのではない。官能にあっては、客観的かつ自同的なある内容が共同体を媒介するのではない。共同体もまた感覚することの類似に由来することがない。共同体は感覚することの同一性に由来するのである。「与えられた」愛から「受容された」愛への指向であり、愛を愛することである官能は、反省のごとき第二段階の感情ではない。官能は自発的意識さながらまっすぐに進んでいく。官能は内密なものではあるが間主観的に構造化されており、一なる意識にまで単純化することがない。官能のうちでは、〈他人〉は私であると共に私から分離されているのだ。このような感覚することの共同体の只中での〈他人〉の分離が官能を燃え上がらせる。官能を官能たらしめているのは、手なずけられ対象化され物化された〈他人〉の自由ではなく、手に負えない〈他人〉の自由であって、私はこの自由が対象化されたものであることをつゆ望まない。……〈エロス〉ほど所有と縁遠いものはない。〈エロス〉が〈他者〉の所有であるとするなら、私は、他者によって所有される限りにおいて他者を所有する奴隷にして主人であることになる。が、このような所有のうちでは、官能は消えてしまうのであろう。これに対して、官能の間人格性は恋人たちの連関を相補性として考えることをわれわれに禁じる。つまり、官能は他者ではなくて他者の官能をめざすのであり、それゆえ、官能とは官能の官能であり他人の愛への愛なのだ。愛が友情の一特殊例ではない所以であろう。愛と友情は単に異なった仕方で感得されるだけではない。愛と友情はその相関項を異にするのだ。友情は他者をめざす。これに対して、愛は存在の構造を有さざるもの、無限に未来のもの、産出されるべきものをめざす。私が他者を十全に愛するのは他者が私を愛する場合に限られる。が、それは〈他者〉による承認が私に必要だからではなく、私の官能が〈他者〉の官能を享楽するからである。この比類なき「同一化」の連繋において、この超実体化〔実体変化〕において、〈自同者〉と〈他人〉は一体化するのではなく、ありとあらゆる可能な投企の彼方、有意味かつ知性的な一切の権能の彼方で、まさに子を産むのである。」
エマニュエル・レヴィナス「顔の彼方へ」)