( ゚Д゚)<神経的箱庭の外に

「とはいえ、あらゆるコードをもつれさせることは、もっとも単純なエクリチュールの水準でも、そして言語活動の水準でも容易なことではありません。目下のところ似たような例としては、カフカの場合しか思いつきません。プラハユダヤ人たちの言語的状況との関連においてカフカがドイツ語についておこなったことです。すなわち、彼はドイツ語でドイツ語にたいするひとつの戦争機械を組み立てました。不確定性と簡潔性によって、彼は今まで決して聞かれることのなかった何かをドイツ語のコードにそって通過させるのです。ニーチェ自身は、自分をドイツ人にたいするポーランド人とみなしていたか、あるいはそう望んでいました。彼は、ドイツ語でコード化できない何かを通過させることになるひとつの戦争機械を組み立てるために、ドイツ語を略取したわけです。それこそが、まさしく政治としての文体です。……
 このような印象をあたえることになる、ニーチェアフォリズムの特徴というものは、いったい何なのでしょうか。……それは、外との関係です。実際、たまたまニーチェのテクストを開いたとき、それが、もはやなんらかの内部を通っているのではないという印象をもつ最初の機会の一つとなっていることに気づきます。魂や意識の内部であろうと、本質や概念の内部であろうと、それらはつまるところ、いつも哲学の原理となっているものです。哲学の様式をなすということは、外部との関係がそのなかでいつも媒介され、なんらかの内部によって、内部のなかに解消されているということです。ニーチェは反対に、思考やエクリチュールを外との直接の関係のうえに築いています。とても美しい絵、あるいはとても美しいデッサンとは何でしょうか。なにがしかの額縁=枠があります。アフォリズムにしても、また枠に組み込まれています。しかし、どのような瞬間から美しくなるのでしょうか、その額縁=枠の中にあるものは? それは、その運動が、額縁に収められたその線が、よそからやって来るということ、その線が額縁の枠内で始まるのではないということがわかり、そしてそう感じる瞬間からなのです。線は額縁の上方、あるいはその脇で始まり、線は額縁を横切るのです。」
ジル・ドゥルーズノマドの思考」)