( ゚Д゚)<フェミニスト・ヨブ

ヨブ記に見られる他の女性への参照(例えば、一四・一、一九・一七、二五・四、三一・九-一二)は、特別に反フェミニストではない。「女から生まれたこと」の不純性は、人類という種族それ自体に関わる性格づけであって、女性の不純性を儀礼的に暗示したり、そういう発想に繋がっているわけでもない。リリト、つまり残虐で、破壊と不妊性を胎んでいる女性的な形象への言及(一八・一五)はより両義的である。しかし、この付随的な言い回しも、一義的な反フェミニスト的な意味合いからはかなり隔たっている。
 では何故、力強いヨブについて語っている時に、こうした古めかしいカリカチュア的な糾弾〔女嫌い〕を改めて持ち出して、取り上げる必要があるのだろうか? 何故なら、こうした糾弾もまた実際のところ、エクソシズム、つまり、正統派に対して恐怖を抱かせるような解釈上の意味を転倒するための一様式だからである。ヨブ記は、全ての悪意のある読解に反する形で、まさにさきほど参照したこれらのくだりにおいて、ヨブにおける優しさを付与している。それは、存在論的、創造的、連続的な行為における優しさであり、そうした行為における力を象徴している。ヨブは、地上における人間の力、社会的、構築的な力である。それは、価値へと変換される生産、集合的な労働である。しかしよく考えてみれば、類としての人間の普遍性は、女性的な生産、母性に由来している。力とは反-不妊性である。ヨブの力を支えている有機的基盤は、この点でヨブをめぐる象徴的な意味の体系をプロメテウスのそれから遠ざけている。そしてここにおいて、この有機的基盤、言い換えれば、力の真っ直中で、神的なものと人間的なもの、男性的なものと女性的なものを結合させるこの同盟が固定化される。従ってヨブのいわゆる反フェミニズムというのは、単なる伝承ではなく、力の領域におけるヨブの言説の規定的な創設作用を覆い隠すべく、神秘化して誤摩化すための操作なのである。」
アントニオ・ネグリ『ヨブ 奴隷の力』)