( ゚Д゚)<疑似嫉妬

「「こわい人だなあ、同じ屋根の下で」と広部は矢沢の身になってつぶやいた。ところがそれを口にしたとたんに、同じ屋根の下で男と女が別々に棲息している、階上と階下とで気配に耳を澄ましあっている、獣じみた濃密さがじかに身に迫って、息がつまりそうになった。自分はそこにはいない、という思いをこらえて、その想像を嚥み下すまでに、しばらく間がかかった。
「あなたは、嫉妬しない人ね」と、その時、柾子が行った。はっとして顔を上げると、こちらを観察していたのでもなさそうで、惰性のようになった興奮の燃え残る目をぼんやり宙に向け、顔はいかにも長話に夜が更けた感じで睡気にふくれ、苦笑もすっきりと浮べられずにいた。
「人並みだろうね」と広部は答えた。「ただ、嫉妬でも、時間をかけて熟すのを待つよりほかにないんだ」
「亡くなった方と、何かあったのね。その方への嫉妬がいまようやく熟れて、わたしをやわらかくつつんでいるみたい」
 そう言って柾子は頬杖の中に顔を埋め、もうさっきからまばたきもしない瞼をゆっくりおろし、寝息のようなものを立てはじめた。横にくずした脚が座蒲団に重く沈んで、黒っぽいストッキングの下でふくらはぎが力なく腫れていた。」
古井由吉『櫛の火』)