( ゚Д゚)<古典主義とはナニカ

「武智 濡髪のお母さんが、お前が逃げてくれないんだったら自殺するといって剃刀を持つのを止めるところで、「あぶない、あぶない、あやまりましたッ」ていうのがね、みんなムキになり過ぎるっていってましたね。大関とおばあさんだから、力入れたらおばあさんが折れちゃうって。(笑)
 それで子供をあやすように「ああ、あぶない、あぶない、──あやまりました」というんですが、「あやまりました」といってから考えて、大変なことをいってしまったと思って、それからどうしようと思って、──でもここでもう仕方がないと思って、二つ目の「あやまりましたーッ」をかわっていうんですね。だから二つ目の「あやまりました」にもっていくまでに、最初の「あやまりました」から、みんなあやまってるから、そんならはじめっからあんなことをせんでもいいだろうってね。(笑)
 そういうふうにちょっとしたところをつかまえても、掘り下げていくというのは、やはり義太夫は、語りものの形式自体が嘘でしょう。それから浄瑠璃の内容も嘘ですからね。たとえば熊谷直美が敦盛の代りに自分の子供を殺している。その外廓の嘘やフィクションを、中身の真実で埋めかえていくわけですね。その埋めてゆくためには、どこまでも掘り下げていかなければいけない。
 ところが自然主義以後の演劇だと、外側がほんとうだから、中身の役者が何をやっててもいいし、何もやらないで、ただ台詞をしゃべっていてもよい。今の新劇の人達が、どうしてテクラメーションが新劇には生れないかなんていうけれども、生れるわけがないですよ。こうやらなきゃいけない、ここまでやらなきゃいけないという規範がないのだから。つまり杉山(茂丸)さんの言葉を借りれば、決勝点のないマラソン競走みたいなことをやってるわけですものね。」
坂東三津五郎武智鉄二『芸十夜』)