( ゚Д゚)<失われた時を求め過ぎて・2

「その農民の血が自分のなかにも流れていると想うと、なぜか心がやすらいだ。私はいま祖父が眺めたのと同じ庭をながめ、その石燈籠や、松や、サルスベリや、椿や、わけても黒々とした肥沃な土と交感している。なぜ祖父はここに戻って死ななかったのかと私は思い、そうしなかったところに彼の一生の意味があると思い直しながら、それにしても自分が本家の顕在についてはなにも知らぬまま、この蜂須賀村まではるばるたずねて来たのはいったいどういうことだったのだろうと、あらためて考えはじめないわけにはいかなかった。
 この美和町周辺の濃尾平野の地形は、ある意味では江頭家の先祖が住んでいた佐賀平野の地形にかなりよく似ているともいえる。天山のかわりに伊吹山があり、筑後川にかわるものとしては庄内川がある。いずれも今日にいたるまで稲作を主体にしているような純然たる農業地帯で、土地はきわめて肥沃かつ平坦であり、海に遠くはないが、決して海に面しているわけではない。
 偶然このような類似点を持つ、九州と本州との二つの地方に生れた下級士族の次男と中地主の三男が、十三年をへだててともに帝国海軍に身を投じ、やがて結婚して息子と娘を生んだ。この結合から生れた子供は私ただ一人である。その私はすでに中年に達しかけていて、売文を業とし、なにものかに追われるように──あるいはなにものかに呼びよせられるように父祖の地をたずね歩いている。
 いったい私はなにを求めてこんなことをしているのだろう? 自分の言葉の源泉を求めて、と考えたこともあった。そうでないことはない。だがおそらく、もっと単純ないいかたをするなら、私は還りたいのだ。どこへというなら、もっと健全で簡素な場所──そこで生と死の循環が動かしがたいかたちで繰り返されているような場所へ。私は還って触れたい。なににというなら、そういう場所の土に。そしてその土に、自分の不毛さを身を打ちつけて詫びたい。その土が、この屋敷の庭の土だというのだろうか?」
江藤淳「もう一人の祖父」)