( ゚Д゚)<福音はロックだ

「「神の救いの福音」をパウロは伝えなければならない。まったく新しく、いまだかつて聞いたこともないほどよき、喜ばしい神の真理を人々に手わたすのである。だが、それはまさに神の真理なのだ! つまり、それはけっして宗教的な福音、人間の神性や神格化についての報知や指令ではない。まったく他なるものとしての神、人間が人間であるかぎりなにも知りえないであろう神、そしてまさにそれゆえに、人間に救済をあたえる神についての福音である。したがって、直接理解されるべき、一度で把握されるべき、他の事物とならぶ事物の一つではなく、つねに新しく語られるからこそ、つねに新しくおそれとおののきをもって聞きとられるべき、あらゆる事物の根原である言葉なのである。したがって、体験、経験、感覚ではなく、その最高のものであったとしても、それらのものではなく、目もいまだ見ず、耳もいまだ聞かないことについての率直で、客観的な認識なのである。だが、したがってまた、注意するだけでなく参与をも期待し、知解だけでなく深い理解をも期待し、共感のみならず協力も期待する報知なのである。信仰を生み出すことによって、神への、神そのものへの信仰を前提する報知なのである。
 それがまさに、神についての福音であるからこそ、「あらかじめ宣べ伝えられた」のであり、それだからこそ今日の思いつきではなく、歴史の意味、その稔りの収穫、永遠の種子としての時間の果実、預言の成就である。それは、古くから預言者たちが語ってきた言葉であり、いま聞きとりうるものとなった、また聞きとられる言葉なのである。それは、使徒に委託された救いの福音の本質であり、同時にかれの語る言葉の保証であり、それがうける批判でもある。預言者たちの言葉、ながく保管されていた言葉、その言葉がいま語るのである。エレミヤ、ヨブ、伝道の書の記者ソロモンがあらかじめ宣べ伝えていたことが、いま聞かれる。われわれは書かれていることを、いまや見、かつ理解すりことができる。われわれは、いまや「旧約聖書全体への導入路」(ルター)をもっている。したがってここで語る者は、明白なものとなり、理解可能となった歴史の基礎の上に立つ。「かれはただちに革新者としての栄誉を謝絶する」(シュラッター)。」
カール・バルト『ローマ書講解』)