( ゚Д゚)<理性の彼岸

「従ってカントは一層根源的な基礎づけの可能性と必然性とについて知っていたわけであるが、しかしこのような基礎づけは彼の当面の意図のうちには存しなかった。しかるにこのことは、超越論的構想力こそはまさに超越とその対象との統一を形成するものであるのだから、この構想力を抹殺する理由とはなりえなかった。カントが固有の超越論的根本能力としての校閲論的構想力に背を向ける機縁となったのは、この超越論的構想力それ自身でなければならなかった。
 カントは主観的演繹について詳論しなかったから、彼にとって伝統的な人間学および心理学によって提供された機制と特徴づけにおける主観の主観性が依然として主導的なものであった。この伝統的な人間学や心理学にとって構想力は感性の内部におけるまさに一つの低級な能力であった。実際、超越論的演繹論および図式論の成果、すなわち純粋構想力の超越論的本質への洞察は、それ自体としては主観の主観性の全体を新しい光のうちで眺めさせるほど強力なものではなかった。
 それでは感性のこの低級な能力がどうして理性の本質を成しうるというのか。最下位のものが最上位に置かれるならば、すべてが混乱に陥りはしないか。ラーティオとロゴスが形而上学の歴史において中心的機能を要求するという栄誉ある伝統はどうなるのか。論理学の優位は崩れうるだろうか。超越論的感性論及び論理学が主題とするものが根本において超越論的構想力であるべきだとすれば、形而上学の基礎づけの建築性、すなわち超越的感性論と超越論的論理学への分節は一般になお維持されうるであろうか。
 純粋理性が超越論的構想力に転化するとすれば、「純粋理性批判」は批判それ自身によって主題を奪われるのではないか。この基礎づけは一つの深淵の前へ導くのではないか。
 カントは形而上学の「可能性」を彼の問いの徹底性によってこの深淵の前に持ち来たした。彼は未知なものを見た。彼は退避しなければならなかった。超越論的構想力が彼を驚かせたからばかりではなく、やがて純粋理性が理性として彼をなお一層強く呪縛したからであった。」
マルティン・ハイデッガー『カントと形而上学の問題』)