( ゚Д゚)<実存主義(笑)

「収容所に移った者は、沈んでしまった場合も、生き残った場合も、耐えられるものはすべて耐え、耐えたくないものも耐えるべきでないものもすべて耐えた。しかし、このように「力の限り耐え抜いた」結果、このように可能なものを汲み尽くした結果、「人間的なものをすっかり」失ってしまう。人間の潜勢力は非人間的なもののうちへと越境しており、人間は非-人間をも耐えている。ここから、生き残った者の悩み、レーヴィが『創世記』から受け継いだ苦悩と考えた「名前のない、やむことのない悩み」、「人間の精神が不在のトーフ・ヴァヴォフ〔空虚な宇宙ないしは混沌〕のそれぞれのうちに刻みこまれた苦悩」が生じる。このことが意味するのは、人間は非人間的なものの刻印を担っているということであり、人間の精神は非-精神という傷、すべてを受け入れられる人間の能力のもとへと残酷にも引き渡された非人間的なカオスという傷をみずからの中心に包みもっているということである。
 悩みも、証言も、ただ単に、なされたこと、あるいは被ったことにかかわっているのではなく、なされえたこと、あるいは被りえたことにかかわっている。非人間的なのは、被ることのこの可能性、このほとんど無限の潜勢力であって、なされたことではなく、行動でも行動しそこなうことでもない。SSの隊員たちに拒まれていたのは、まさにこの可能性の体験である。この死刑執行人たちは、自分たちがやったこととはちがったふうにはできなかったと、口をそろえて言いつづけている。すなわち、自分たちはただ単にできなかった、やらなければならなかっただけなのだと。行動する可能性ももたずに行動することは、こう言われる。Befehlsnotstandと。すなわち、命令遂行の強制状態ということである。そして、自分たちはkadvergehorsam、すなわち死体のように従ったのだと、アイヒマンは言った。たしかに、死刑執行人たちもまた、耐えてはならないこと(しかもときには耐えたくないこと)を耐えなければならなかった。しかしそれでも、〔寄席芸人〕カール・ヴァーレンティーンの含蓄あるジョークによるなら、「それができるほどの元気はなかった」。このため、かれらは「人間」のままであったのであり、非人間的なものを体験しなかった。……犠牲者たちが、耐えることができたことはすべて耐えたがゆえに、自分たちが非人間的になったことについて証言したのにたいして、死刑執行人たちは、拷問し殺しているあいだ、「立派な人間」でありつづけ、耐えることができたはずのことを耐えることをしなかったのだ。」
ジョルジョ・アガンベンアウシュヴィッツの残りのもの』)