( ゚Д゚)<批判のためには・2

「語感でものを考えるのに慣れている人は、「文化批判」(Kulturkritik)という言葉を聞くとむかむかするにちがいない。それは単にこの言葉が、「オートモビル」という言葉のようにラテン語ギリシア語のごた混ぜだからというだけではない。この言葉が、ある明白な矛盾を思い出させるからである。文化批判者は文化が気にいらない。だが、彼が文化を感じることができるのは、ひとえにその文化のお蔭なのである。彼は、掛値なしの自然であろうが、もっと高次の歴史的状態であろうが、そういう考えを自分が支持するかのように語るが、しかしその批判者自身は、自分のほうがそれより崇高だと思っている相手と同じ存在なのである。……とはいえ不適切な文化批判は、その内容からいって、批判される対象への尊敬の欠如に終わるよりも、むしろ、ひそかにだが、その対象に目がくらんで恭しくそれを承認するという結果に終わる。文化批判者は、たとえ彼がそういう帰属を欠いた文化をもっていても、〔文化への〕帰属を避けることがほとんどできない。批判者の空虚な虚栄心は文化の空虚な虚栄心を助長する。慨嘆する身振りのうちに、彼は孤立無援、不偏不党であるかのように、教条的に文化の理念を墨守する。……
 文化批判と文化との共犯関係は、単なる批評家の心構えの問題ではない。むしろそれは、批評家が論じる対象と彼との関係によって強要されているものである。批評家は文化を対象とすることによって、再度それを対象化する。だが、文化自身が目指すものは対象化の中止である。文化がみずから「文化財」になったり、その忌むべき哲学的合理化である、いわゆる「文化価値」に凝固したりすれば、もうそれだけで文化はおのれの存在理由を冒涜する。それらの価値が交易の言語を思い出させるのはいわれのないことではなく、そういう価値の分溜において、文化は市場の下知に唯々諾々と従っている。外国の高い文化に感動する際にも、文化は、金を投資できる珍品を見つけた感動で震えが止まらない。文化批判がヴァレリーにいたるまで保守主義の味方であるとしても、それは後期資本主義の時代においても景気変動に左右されない固定資産を目指すところの、ひとつの文化概念によってひそかに導かれている。この文化概念は、自分は後期資本主義とは無関係だと主張するが、それはいわば全面的力動のただ中で全面的保障を与えんがためである。文化批判者の原型は、芸術批評家に劣らず、値踏みするコレクターである。「文化批判」という言葉は一般に、値切りの身振りを思い出させる。たとえば、それは美術専門家がある絵画が本物かどうか疑わしいと言ったり、それを巨匠のマイナーな作品の一つに数えたりして、値切るような身振りである。人々はもうけるために、けなすのである。文化批判者は、たとえ彼が文化の売り立てに賢明に抗議しようと、値を付ける者として、文化価値に汚染された領域と否応なしに係わらねばならない。文化に対する批評家の観照的態度のなかには、細部の点検、全体の通覧、比較検討、選別などの行為が必然的に隠れている。つまり批評家は、これは良い、あれは駄目だと言わねばならない。ほかでもない世間から超然とした批評家の態度や、対象についてより深い知識をもっているという自負、判断の独立性による彼の仕事からの概念の分離などは、文化批判がいわば展示された諸観念の蒐集にもとづいて、精神、生命、個人といった孤立化されたカテゴリーを物神化することによって、今まさに問題の事物的形態に囚われようとしている。
 文化批判の最高の物神は、しかし文化の概念そのものである。……」
アドルノ「文化批判と社会」)